「『…第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二頭、一歳の雄の子羊十四頭をささげなさい。これらは傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭のため、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二頭のため、雄羊一頭につき十分の二エパ、子羊十四頭のため、子羊一頭につき十分の一エパとする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。二日目には、若い雄牛十二頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。三日目には、雄牛十一頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。四日目には、雄牛十頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。五日目には、雄牛九頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。六日目には、雄牛八頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。七日目には、雄牛七頭、雄羊二頭、一歳の傷のない雄の子羊十四頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。八日目にあなたがたはきよめの集会を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなさい。これらの雄牛、雄羊、子羊のための、穀物のささげ物と注ぎのささげ物とは、それぞれの数に応じて定められる。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。あなたがたは定められた時に、これらのものを主にささげなければならない。これらはあなたがたの誓願、または進んでささげるささげ物としての全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのささげ物および和解のいけにえ以外のものである。』モーセは、主がモーセに命じられたとおりを、イスラエル人に告げた。」
民数記29章12-40節
嫉妬によって私情が挟まると、本当に良いものを見えなくし、ある意味で盲目にしてしまいます。そうすると、本来得られるはずの最高のものを見えていても、見えなくなってしまうわけです。神様はいきなりさばくのではなく初めに愛を示され、救いの道を示された。愛を約束されているのです。知らなかった、ということがないように。今生きる私たちの初穂として十字架にかかられることによって、私たちに救いを示された。この歴史、聖書は現在もどんなに権力者が焼き尽くそうとしても残っている。それほどに神様の御思いは力強いのです。私たちはこの神様が最高の御国へと一日一日あなたを導いてくださっている。私たちはこの神様に信頼し、歩もうではありませんか。
さて、ヨシュアとカレブ、モーセ以外、第2世代に入れ替わり、人口調査、土地分配の懸案事項を神様に導かれ解決し、リーダーがモーセからヨシュアに変わった、その後、神様は世代が変わっても、状況がわかろうとも神様の愛は変わらない、と生贄や祭りの制定を変えることなく、同じ聖なる家族、神様の家族に招かれている御思いを伝えられます。
↑の前に、28章では生贄と春の祭りについて、過ぎ越しの祭、それに伴うパン種を入れない祭り、初穂の祭り(復活)、そして7週の祭り(ペンテコステ)が行われた事を見ました。それは罪ある私たちの罪をイエス様が十字架によって罪を赦され、取り除かれ、復活されたイエス様が新しいパン種のごとくあなたのうちに住まわれ、あなたというパンを、人生を膨らませてくださり、また聖霊様が豊かにあなたのうちに働かれる、そういう意味で、神様のあなたへの御思いは生まれる前から、またまだ罪の中にいたときから変わらず向けられ、変わらず導かれていることが見えてきますね。
また29章は秋の祭りになりの前半2つ、ラッパの祭りと贖罪の日が行われること、イエス様がやがて統治してくださる、そのいのちをもかけ愛されるほどのイエス様が治められる千年王国に向け、私たちをふんだんに絶えず導かれること、終わりの時まで私たちは困難があろうとも、一歩一歩導かれることを見ました。
そしていよいよ↑、秋の祭りの最後、仮庵の祭りについてになります。仮庵の祭りについては、レビ記の23章を分かち合っている中で共に見ましたので、細かい数字等が気になる方はブログのレビ記を参照ください。ただ言えることは、神様は仮庵の祭りを、第2世代に入っても、第1世代と変わることなく制定された。神様が恵みを溢れさせてくださるその約束の地に入る前に、もう約束されているのです。
そして何より忘れてはいけないのは、約束の地は約束の地について終わりではなく、そこからも歩みは続き、本物の仮庵の祭り、千年王国、イエス様の統治される平和の御国が来る、そのふんだんなく続く愛をこれから続く戦いの前に示された、それは神様が彼ら、私たちを気にかけ、また愛してくださっている、それに信頼することを願って神様は語られたのではないでしょうか。
それにしても、↑の一番最後の言葉、「モーセは、主がモーセに命じられたとおりを、イスラエル人に告げた」とあります。モーセは約束の地に入れません。ヨシュアにリーダーが変わります。嫉妬して、私情を挟んで、神様が命じられたことを捻じ曲げてもおかしくない、しかしモーセは決してそのようなことをせず、神様が語られたことを一言も変えることなく、これから約束の地に入っていく民に漏らすことなく告げた。これは本当にすごいですね。
仮庵の祭りとも関わる話なのですが、神様は生きている間だけ面倒を見るけど、死んだら知らない、とかそういう方ではない。神様に立ち返るすべての人をやがてくる千年王国に招かれる、そこまで継続して神様は民を、私たちを導かれるのです。モーセも、死んでそこで終わり、ではなく、神様の元へと招かれている、その恵みは永久であることを分かっている、体験してきている、だからこそ、残される民に、この恵みに生きてほしい、と願っているのではないでしょうか。
彼らが目指している地は、ある意味では通過点でしかなく、約束の地で落ち着いた後、第3世代は神様から離れ、せっかく神様が祝福されているのに、現地のことは現地の民、彼らの拝む偽神を拝む、と、神様に背を向けた事によって多くの苦労を負うことになります。せっかく奴隷から開放されたのに、また別な国に奴隷に囚われ、苦しめられることもしばしば。
約束の地についてからも戦いが続きますが、しかし、神様が永遠へと、仮庵の祭りを語る中で導かれていること、神様ご自身がイエス様を本来私たちが捧げるべき生贄の身代わりとされたことによって、不完全な私たちを新しくつくりかえ、神様の子として迎え入れられるのです。
神様の愛は途切れることがありません、1日、2日、3日…と終わりの時が来るまで。全焼の生贄から始まり、すべての生贄、捧げ物がなされていきます。それは神様の尽きることのない愛、ここに私たちを招かれている、聖なる会合、お祝いがまさになされる。
私達がこの世を見渡せば、様々な戦いの道のりを進むことも、イスラエルの民のようにあるかもしれない。苦労しながら獲得しなければいけないことも多々あるかもしれない。しかし、私たちの目ではなく神様の約束された、はじめに語られ、十字架において実行された愛、これに私たちは信頼し、歩もうではありませんか。
私たちはこの世のどんなものをも嫉妬する必要はありません。全てに勝る神様の愛が、どんな時にあっても途切れることのない神様の愛が、捧げられるはずの生贄の代わりに神様の最高の御心が現されることを悦び、イエス様と共に日々日々生かされ、導かれ、養われ、歩もうではありませんか。