「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。…』」
民数記28章1-15節
人はリーダーや上司、体制が変わると、状況、様子見などする傾向がありますよね。まあ、それがありの法則2:6:2(それでもちゃんと働く人2、どっちつかずで様子を見ている人6、乗り気にならずあまり働かない人2)にも当てはまっていますが。しかしそれは本当に正しい状態なのでしょうか。神様の私たちへの愛は変わらない。私たちへの悦びは変わらない。あなたに最高のいのちを与えるために御子イエス様の命さえ惜しまなかった、この神様に私達は信頼し、従うものでありたいですね。
さて、ヨシュアとカレブ、モーセ以外、第2世代に入れ替わり、人口調査、土地分配の懸案事項を神様に導かれ解決し、ついにリーダーがモーセからヨシュアに変わった、その後から↑は始まります。ここから29章にかけて神様への捧げ物についての教えを神様は語られるのですが、実は中身は第1世代と変わっておらず、第2世代に入れ替わってももう一度確認する(続く申命記も、もう一度という意味もあり)、神様の教え、と言っても押し付けではなく、私たちに命を得てほしい、神様の本当の愛に生きてほしいという願いは変わらない事が見えてきます。
ということで↑を見たいのですが、リーダーがヨシュアに変わったと言えども、祭儀に関してはレビ族のやくわりになるので、モーセを通して語られるわけですが、神様は第2世代に向けて、レビ記(1−4章くらい)でご一緒に分かち合いました、聖なる神様に近づく方法を語られました。ざっと復習しますと、↑にある火により捧げ物は、全焼のいけにえ(任意のささげもの、自発的、香ばしい香り)、 穀物のささげもの(任意、自発的、香ばしい香り)、 和解のいけにえ(任意、自発的、香ばしい香り)、 罪のためのいけにえ(義務的、香ばしくない香り)、 罪過のためのいけにえ(義務的、香ばしくない香り)になります。
中身が同じ、ということは、世代が変わっても、人が変わっても(世代もそうですが、大祭司もアロンから変わりましたしね)、神様の約束は変わらないのです。聖なる神様に近づかせてくださる、神様は私達を招いておられ、喜びの祝福で満たしたいのです。神様は私たちとの隔たりを当時はこうした生贄によって取り払い、彼らを聖なる民として招いてくださった。第2世代もそこそこはやらかしていることをここまで見てきていますが、それでも神様は彼らを招きたいのです。彼らの神様への疑念、何より罪を取っ払い、神様の悦びで満たしたいのです。
これらの生贄についての細かいことはレビ記で細かく分かち合わせていただいたのでそちらを見ていただきたい(ブログのレビ記の項目をクリックすれば1章から細かく見れます)のですが、神様は第1世代がひどいことをしたから、第2世代も罪を犯したから、厳しく締め付けよう、とはなさらず、その生贄に関わる量は変わっていません。それは神様の御思いそのものではないでしょうか。もし、こんなに従わないなら、罰したほうが良い、締め付けて無理やり従わせたほうが良い、と思うなら、分量を厳しくするでしょう。
しかし、イエス様に、その厳しさすべてを神様は背負わせてくださった。それはとても大きなことです。私たちが罪から来る報酬、死を受け取らなければいけない代わりに、御子イエス様が十字架にかかられ、身代わりに死なれたことによって、生贄になられたことによって、完全な贖いとなられた、それほど、私たちを神様の聖へと招かれたいのです。
ところで、↑で一つ気になる言葉がありますね。それは「わたしへの食物のささげ物」という部分です。神様の食べ物って?イエス様は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。…わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」とおっしゃられています。そう、イエス様に従い歩む、その中に神様の溢れんばかりの愛が、悦びが満ち溢れるのです。もちろんイエス様ご自身が命という食べ物という生贄となられたのは言うまでもないのですが、同時に身代わりになられたことで、私たちは生きるのです。むしろ私たちはこの捧げられた生贄、イエス様を受け入れることによって、生きたものとなるのです。
捧げ物の中で自発的に捧げるものがありますね(最初の方で見ましたが)。イエス様は苦しみながらもいやいや十字架にかかられたのではない、あなたのために、身代りに十字架にかかられたのです。仕方がないから、とかそんなものではありません。
イエス様は「食べる」ということに関し、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と仰られています。また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」とも語られました。
私たちを、イエス様は永遠へと導くため、いやいやではなく、悦びを持って生かしてくださるのです。3日目に復活されたイエス様があなたのうちに住まわれ、とどまられ、あなたを生かしてくださり、日々養ってくださるのです。あなたは神様によって悦びを持って作られた存在。しかも御子イエス様の命を持ってまで愛された存在です。あなたを日々その悦びで溢れさせてくださる、なんと感謝なことでしょう。
私たちは聖なる民へと招くために、惜しむことのない神様にどう応答するでしょうか。神様は御子イエス様の命を持ってまであなたを愛された。私たちはどう応えるでしょう。命をかけてあなたを新しくされた神様に私たちは信頼しよう。あなたの今日は、明日は、神様が新しくされた日、命なのだから。