ー巧妙な罠と戦う1ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。主はモーセに言われた。『この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。』そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。『あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。』モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。」

民数記25章1-9節

 

世の中理不尽なこともあり、それと戦わなければならないこともあります。多分、こんな私よりこれを読んでる方々のほうがたくさんそのようなことを知っているでしょう。理不尽だからしょうがない、ではないのです。所詮こんなもんだ、私の人生は、じゃないのです。私達に命を与えてくださった神様がいるのです。私達は神様に信頼し、歩ませていただこう。あなたは1人ではない。神様がいる。

 

さて、ここまで見てきた第一世代の最後の章になりますが、ここでなんと最後の最後に大きな問題が起こるのでした。せっかく神様がバラクの呪い作戦からイスラエルを守ってくださったのに、ここで大事件が起こり、神罰によって↑にある通り、なんと24000人のイスラエルの民が死ぬことになります。

 

ただ、この箇所、ただ淫行事件が起こったので、という話ではないのです。前の章に出てきていたバラムの企みがどうもあって起こった事件のようです。先の31章でモーセは「ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ」と、バラムが絡んでいた事を語ります。

 

また、黙示録という、イエス様の12弟子の一人ヨハネが晩年御霊に導かれ、残した黙示録に、ペルガモという教会について「あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた」とあります。

 

そうするとただ悪いことをしたから神罰が下りました、で終わる話ではないのです。背後にはこのバラムの問題、優柔不断、サタンの狙い、様々なものが絡んでくるわけです。どうやら、イスラエルを呪うように頼まれ雇われていたバラムは、バラクに、イスラエルを自分がのろうことはできないことを話しましたが、バラムはイスラエル自身がつまずいて、主から罰を受けるようになればよいではないか、と考え、モアブの王バラクに、女たちをイスラエルの宿営の中に送り込むようにアドバイスをしたのです。

 

まずバラム、せっかく神様の素晴らしさを知ったのに、それを託宣として伝えて終わり、自分の喜びとしなかった、そこに問題があります。結局の所、バラムは報酬、欲の目がくらんでしまった。これなら責任はないだろう、と思った彼も、黙示録が書かれる1世紀まで彼の問題は引き合いに出されるほどに神様の怒りが残っていきます。なにせ、シメオン族のうち、24000人が誘惑され、神罰を受けることとなるのですから。そしてシメオン族は減少し、最終的に約束の地についても、彼らの部族が与えられるのは、ユダ族の相続地の中の一部になります。しかしそれでもシメオン族を神様のうちに招かれたことは感謝に耐えませんね。

 

ちなみに、バアル・ペオルというのは、モアブ族(バラク王の)が礼拝対象としていた偽神・偶像をさしますが、そんなものに囚われてしまうのです。しかも、バアルの礼拝(豊饒を願って淫行を伴うまつりを行ったり、剣で自分の体を傷つけてお願いしたり、子供に火の中を通すなどとんでもない、今でいうカルト宗教)に巻き込むのです。

 

明日の続きの箇所でもう少し詳しい話は見ますが、それにしてもバラムの責任なのにどうして神様は「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう」とモーセに命じさせたのでしょう。ちょっとひどいのでは?と思いたくなるところ。

 

しかし、それ以外の人たちはこの誘惑に負けなかった。今導いてくださっている神様が十分に養ってくださっている、家族も与えてくださっている、守られている、今更そんな物に頼ってどうなる、とこの誘惑と戦ったのです。まあ、約束の地に入って後、3世代目のほとんどの部族はまた神様から離れていくのですが。

 

話は戻して、このペオルの事件の前半部から3つのことが見えてきますね。1つは、これくらい大丈夫、と思うことは、罪は、必ず周りに悪影響を与える、という事。罪から来る報酬はあらゆる意味で死です。聖書を問わず、世の中見てもそうですよね、なにか悪いことをする、企めば、それは悪影響を及ぼし、周りに波及していきますよね。しかし神様のイエス様にあって与えてくださる賜物は永遠の命、そこから本来託宣で神様に告げられた善を見、また溢れ流れていく。自分の欲望というよりも、願い、思いはどこに向いているでしょうか。

 

2つ目に見えてくるのは、今問いかけたように私達の決断です。ヨブという、サタンの手で家族、財産を失った人を励ましに来た友人たち、その中の友人が思わぬ真理を語ります。慰め励ましに向かへばよかったのですが、目的は違った。ただ言っていることは真理で、「あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く」のです。サタンがどんなに誘惑してこようと、アダムとエヴァもそうでしたが、最後神様に従うかどうかは私達の決断。それがシメオン族と他の部族との差に出ました。確かにバラム、サタンの誘惑の問題もあります。しかし、もし、神様に従うことを選ぶ・決断するなら、そこに神様の栄光が、善が、御心があふれるのです。それこそバラムに神様が託宣されたように。

 

しかし、神様が他の部族をも守られていたように、結局やはり神様に従うかどうか、です。様に従う中にあって神様は私達を、サタンや様々な巧妙な罠、誘惑から守られます。1世紀に活動していたパウロは「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と手紙に書き残し、12弟子の1人ペテロは「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです」と手紙に書き残しています。神様は必ず困難苦難、誘惑の中にあっても、一緒に進み、救い出してくださるのです。悪と同じ道を進むのではなく、むしろ神様の愛を知らせ、一緒に神様の素晴らしさを味わいたいものです。

 

何より、神様は私達のために御霊の武具を与え、守ってくださります。ペテロが言うように、悪をほうっておくことは決してありません。バラクが呪いをかけようとしていた時、神様がバラムをとおいて守ってくださったように。神様は、あなたが失われることがないよう、御子イエス様の命を十字架にかけ、死なせるほどにあなたを愛されているのです。24000人ではなく、あなたに永遠の命を得てほしいのです。そして3日目によみがえられたイエス様の恵みが、あなたがイエス様を受け入れる時、同じ復活の恵みに与らせていただき、神様の子として招かれるのです。シメオン族が見捨てられなかったように。

 

私達はバラムへの託宣にあったように、神様の霊が留まるところには神様の善・御心が溢れる。私達は命までかけられたイエス様に留まり、この愛に生かされ、歩もうではありませんか。神様は私たちを見捨てるのではなく永遠の命・新しい命をイエス様にあって与え、もうその道は始まっているのだから、この新しい命、最後までイエス様に信頼し、歩もうではありませんか。