ー語れば語るだけ増し加えられる:生きたい!ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「バラムはバラクに言った。『私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。』バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。バラムはバラクに言った。『あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現われて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。』そして彼は裸の丘に行った。神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。『私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。』主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。『バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。』それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。バラムは彼のことわざを唱えて言った。『バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。【来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。】神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。』バラクはバラムに言った。『あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。』バラムは答えて言った。『主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。』」

民数記23章1-12節

 

会話、これはなかなか難しい。言葉のキャッチボールとよく例えられますが、どこかに駆け引きが出てくると、もうそこに正しいキャッチボールは成立しないわけです。本来の会話やアドバイスというのはお互いが良い方向に向かっていくため、成長していくためにあるように思います。神様は昨日の箇所ではありませんが、死ではなく命の道に導いて下さります。だからこそ、自分はああした移行したい、で押し通すのではなく、神様の御声を聞き、導かれ、歩もうではありませんか。

 

さて、約束の地への旅路、40年の放浪が終わりに差し掛かった時、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営しているのを見たモアブの王、バラクはイスラエルの民が列強国を打ち破り、聖絶した事に恐れ、バラムに呪ってほしい、と何とか雇い入れようとしたのですが、御使いがロバの口を通して彼が神様の御心に帰るよう導かれ、御使いとともに先に向かうことになります。

 

そんな中、御使いにバラクのしもべと一緒に行くように告げられたバラム(名前がややこしくて申し訳ないのですが、バラクはイスラエルを呪うように依頼したモアブの王、バラムは呪いを依頼された方)は、バラクと合流。彼はバラクに「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください」と告げます。

 

バラムはなぜこんな事を命じたのか、これは非常に不明です。「私のために」というのが気になります。それに実は、後に約束の地に入る直前にモーセがこれまでの旅を振り返る際、このバラクとバラムの問題で、「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」とモーセは振り返ります。ある人はこれは最初からバラムは呪おうとしていた、これは呪いの儀式だ、という人もいますが、じゃあ何のために神様はロバの口を開き、御使い(正確には人受肉前のイエス様)を遣わされたのかがわからなくなります。

 

仕事をしていると中間管理職的な立場にいると、どっちに従うべきかわからなくなることがあるでしょう。この時点でおそらくバラムは迷いがあった。どうしたら良いのかわからない、だから神様のもとに尋ね求めにいったのではないか、と思います。そして神様ご自身が本来そのまま放っておいたら呪うところを、祝福に変えられたのだ、と思われます(ちなみに、後の章でバラムは結局、助言によって偶像崇拝、淫行によってイスラエルを混乱に招き入れたので、モーセが振り返ったのはこの時の事も含まれている可能性があります)

 

私たちは生きていれば様々なものに挟まれます。文化であったり、考え方であったり、様々です。自分が何とか残るために、致し方なく、という名の元、結局妥協してしまいます。これからの時代、おそらくそんなことがどんどん起き、悪化していく可能性も聖書から見えてきます。しかし、そんな時こそ、私たちは勇敢でありたいものです。

 

バラムは別に雇われた、呪うという彼の仕事をするだけといえばそれだけですから、ある意味では神様のもとに行かなくても良い、それは彼の最後の決断、自由意志。しかし、彼はどうどうと雇い主バラク王に「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現われて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう」と告げるのです。彼は、ここに来る直前御使い(受肉前のイエス様)が彼を気にかけ、導こうとされていた。王に何をされるかわからない、それでも神様に委ねる、神様に会いに行く決断をしたのです。ただ黙って言われた通りにすれば良い、後になってやっぱり神様ごめんなさい、と適当な態度を取るのではなく。

 

まあ結果、彼は後に偶像を引き入れ、イスラエルの民をバラバラにさせるというとんでもないことをするのですが、結局神様との関係、これをどう考えるかなんです。これから神様は4つの託宣(1つは今回のもの)をされていきます。その度に祝福が増し加えられていきます。それに神様ご自身がその言葉をバラムの口に置かれる、と言ったとおり、実際はバラムの言葉ではない。ただ、神様が彼の舌に置かれた言葉を聞いてどう思うか、それが結局自分にも問われるのです。

 

神様は、そんな曖昧な状態のバラムに「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない」と告げ、バラクのところに戻ったバラムは「…神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」と託宣するのでした。

 

この時、イスラエルの民は裏で呪いをかけられようとしていることは知りません。しかし、神様は呪うのではなく祝福したい、命で満ち溢れさせたい、そのために守って下さっているのです。神様の祝福は増し加わる。従えば従うほどに、神様を求めれば求めるほどに増し加わり、これを求める人はなお同じように祝福される、とバラム自身にも神様は語るのです。

 

これを聴いたバラクは何ということをするんだ、と言いますが、あなたはどうでしょう。呪いではなく増し加わる神様の愛、恵みに生かされたいですか?神様はあなたの知らない中で、どうしてこんな事が、という中にあっても守ってくださっているのです。神様はあなたをただの人ではなく、恵みを、祝福を増し加えたい。そのためなら、罪の呪いから解放すべく、イエス様を私達の罪の身代わりに十字架にかけ、死なせる決断・実行された。そして3日目によみがえられた事によって、私たちは新しくされる。古い私ではない、見よ、全ては新しくなるのです

 

私たちはイエス様の恵み、復活の恵みに今日与らせていただこうではありませんか。ここに生きたいです!と神様の前に悔い改め立ち返り、この尽きない恵みに、愛に生かされ歩もうではありませんか。それはそれ、これはこれ、と切り離すのではなく、神様があなたをまるごと愛し、祝福される、奈良私達も神様にまるごと委ね、神様の増し加えてくださる愛、恵みに生かされ歩もうではありませんか。