ー正しい「聴く力」ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。『ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。』モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。主はモーセに告げて仰せられた。『杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。』そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。』モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」

民数記20章1-13節

 

某総理が、総理に就任する際に「自分には聴く力があります」と言いましたが、それは当たり前です。人の話を聞くのは当たり前。聞かないのが普通ではない、と言わんばかりですが、じゃあその後どうかと言えば、他の総理もそうでしたが、自分に都合のいいことは聞く、都合の悪いことは聞かない、それでは聴いていることにならない。しかし本当に正しい意見が言える人などそうはいない。しかし神様はあなたのことを愛し、あなたのことを一番良く知っている。だからどんなことがあろうとも神様が語られることに耳を傾ける、それこそ傾聴し、従うものでありたいですね。そこには神様が栄光を現され、それを私たちは見させていただけるのだから。

 

さて、↑は偵察の際の罪、コラの反乱等によって荒野を40年間放浪し、いよいよその40年の最後のあたりの年を迎えました。この時、昨日の分かち合いで見ましたとおり、ミリアムが死を迎え、葬られました。昨日は彼女の死にだけ焦点を当てましたが、実はここで問題が発生します。

 

というのも死人にふれることにおいては水によるきよめが実行者に必要なのです。その水を使ったところ、「会衆のためには」水がなかったのです。これにはさすがに民も参りました。どうして神様はそんなことをなさるのか、と。

 

はい、この箇所は聖書の中の疑問の中でかなりとりあげられる箇所、これまで導いてきたモーセが、このたった1回の失敗のために約束の地に入れなくなること。しかも、見ていると民の苦情から発生した、下手をしたらもらい事故のように見える問題です。なぜ?と多くの人が思いますが、実はここにとても大事なことが書かれているのです。聖書は神様の霊感を受けた人が導かれ、書いています。ですから、私たちは聖書を見る時、しっかりと見る、分からなければ聞く(近くの牧師さんでも良いですし、祈りの中で神様に聞く、また別な御言葉を開くなど)必要を感じさせられます。実はここでモーセはこの事についてまず失敗することになるのです。

 

話がそれましたが、そう、民がモーセとアロンに逆らったのは、「会衆のためには」水が残っていなかった、それを訴えたのです。モーセに「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない」と、いつもの常套文句のようなものを訴えていますが、この箇所をよく見てみますと、彼らを神様は裁いていません。第2世代だから?いえ、この先の箇所で裁かれる人が出てきます。

 

水は必要だった、彼らの言い分もわからないこともない、だからモーセが神様にどうしたら良いか尋ねた時、神様は彼らを裁けとは言わず、「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ」と答えるのです。神様が、水を出してくださる、というのです。神様は彼らを養われる方です。

 

しかしモーセは「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と会衆に言い、手を上げ、彼の杖で岩を二度打つのでした。すると水が溢れ出した。良かった良かった・・・ではなかったのです。神様はその時、民にではなくモーセとアロンに、「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」というのでした。驚きですよね。民じゃないの?

 

何が問題だったか?もちろん民の訴えを正しく神様に聴かなかったこと。よく勘違いしてメッセージをされる人の中で、モーセは神様を信じられず、杖で2回岩を打ったから、と言うのですが、そうではないのです。神様は「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と仰っておられるのです。杖を取り、岩に命じる、それが神様が彼らに言ったことなのです。そしてそうすれば「神様が」岩から水を溢れさせてくださる、というのです。2回打ったから、でも、1回だけだったら、でもない。

 

それだけではありません。もう一つ大きな問題があります。モーセは「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と、神様の栄光、神様の御業を横取りし、自分の栄光にしてしまったのです。神様を神様としない、それは民と同じ、罪にほかならない。神様を退けることはアダムとエヴァがした罪と何のかわりもありません。彼らは結果、エデンの園から追放されますからね。

 

だからといって神様は彼らをコラの反乱のときのように地の底に生きたまま陰府に降されるわけではなく、それぞれ生涯を全うさせます。アロンはこの章の最後になりますし、モーセは約束の地には入れませんが、山の頂上から最後、約束の地を見せてくださります。神様は一度の失敗でもうだめ、と言ったわけではないのです。ただ、神様を退ける人がリーダーとして続けていけば戦いはどこかで崩れるし、そもそもモーセも120才。兄アロンはそれ以上ですし、戦いの中でリーダーシップを取っていくことには限界もあります。役割のバトンタッチとなるだけです。

 

神様は一度の失敗でもう赦さない、という方ではなく、むしろ悔い改めれば赦される方、またそれぞれにはそれぞれの役割を与えており、私たちはその中で神様に従うとき、神様が岩から水をだされたように、神様の素晴らしさを目の当たりにし、また体験することとなるのです。

 

民もモーセアロンも、幾度と失敗がありましたが、しかしイエス様はたった一度私達の罪を身代わりに背負い、十字架にかけられ、罰せられ、死なれました。ありえない話。罪を犯したことがない方が、私たちの罪を言って2日機受け、そのたった一度の贖いによって私たちの罪の赦しの道を開かれたのです。この岩から、3日目によみがえられたイエス様から、開かれた墓から新しい命、神様の素晴らしい栄光、道から、愛が溢れ流れるのです。

 

私たちにはわからないことはたくさんあるかもしれない。しかし神様が確かに、私たちを心配し、あなたの閉ざされた何かを開かれ、主の息吹を吹き込まれることを覚え、尋ね求めるものでありたいですね。