「主はモーセとアロンに告げて仰せられた。『あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。』ふたりはひれ伏して言った。『神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。』主はモーセに告げて仰せられた。『この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。』モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、そして会衆に告げて言った。『さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。』それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。モーセは言った。『私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。』モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。『地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない』と思ったからである。また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。主はモーセに告げて仰せられた。『あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。』そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」
民数記16章20−40節
愛しているから言うんだよ、という表現がありますね。自分の意見を押し付けるだけで本当はそうではない場合が体外ですが、もし本当に間違っている時に止める、これは意地悪ですか?そんなことはないですよね。ある宣教師が、愛する息子が「パパ、僕のこと好き?今僕、道路の真ん中で縄跳びをしたいんだけど、僕のことを好きなら赦してくれるよね?」という例えを出したことがあったのですが、みなさんならどう答えます?No。どんなに愛していてもダメなことはダメ、と正しいことを教える、それも愛です。正直神様、厳しいよ、と思うときもあるかもしれない、でも、私たちはよく神様の御声に耳を傾けよう。その時神様はあなたを必ず命の道へと導かれるから。
さて、↑は約束の地を偵察し、故意に悪く言いふらしたため、ヨシュアとカレブを除く、20才以上で登録されている人はイスラエルの民と40年荒野をさまよい、約束の地に入れない、という宣告を神様はされ、それでも荒野の旅を導かれる神様の愛が語られた後、レビ族のコラと、ルベン族の一部が反乱を起こした、その後の話になります。
振り返りますと、コラたちは「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」とモーセとアロンを非難します。そもそもモーセが上に立つのではなく、神様が主権者であり、いつも導いてくださっているのに不平不満を言い、偵察に行っても神様に守られながらなお不平不満を持つ。モーセは神様にお伺いを立て、コラたちに「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの主の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい」と告げました。
これに対して、神様は↑のように対応されます。神様は、何が何でも罰せられるのか?神様がモーセに告げられたことを見ると、そうではない事が見えます。神様は「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。…この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え」と仰ります。
神様は、神様についていくか否かを問われ、神様を認めないコラから離れるように言います。そして、コラの一族、ダダンとアビラム一族全てが滅ぼされたのかと思ったら実はそうではないのです。ダダンとアビラムはよし、そうしよう、神様など認めない、と家族ごと出てきましたが、コラの子どもたちは残りました。ここに境界線が引かれた。神様は、彼らを命の道に招きたい、神様の愛に信頼するか否かをここに示された。せっかくダダンとアビラムの妻子、つまり登録されていない、本来約束の地に入れる人もいたはずなのです。しかし、彼らは神様が導かれる先にある恵みを信用せず、自分たちは自分たちで行動すると決め、結果大地に生きたまま飲み込まれたのです。
一方、コラの子どもたちは生き残り、彼らの子孫は後の古代イスラエル王国のダビデに仕えつつ、このとき受けた恵み、愛を後世に伝え残したか、民を励まし、慰める、多くの詩を残します。神様はそれでも逃れの道、命の道を彼らに示されていた。どうして?願わくば滅ぶことを望まなかった、しかし大地に飲み込まれた人たちは悔い改めず、自分は自分だ、とその道を選んでしまったのです。火の皿の問題も同じです。
神様が選ばせたのではない、彼らが選んだ。神様がひどいのではない、神様は悔い改め立ち返るすべての人を喜んで迎え入れてくださります。神様はいつも裁きの前に待っておられる。ノアの洪水の時も、ソドムとゴモラの時も、後の時代、バビロン捕囚にあったイスラエルの民も。それは彼らが、私たちが生きることを神様は願っておられるからではないでしょうか。神様が「コラやその仲間のようなめに会わない」と仰られた、これこそ何より神様が願われているのです。
神様は「炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ」と仰られました。神様は、私たちがコラたちのようにならないよう、命を失う事がないよう、御子イエス様を人として生まれさせ、この火皿の中にまさに住まわれ、それでも愛を現されたのです。それだけではない、十字架という最も恐ろしい裁きを私たちの身代わりに引き受けられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられ、この救いの御手を私たちに差し伸べられたことによって、このイエス様に立ち返るすべての人の罪を赦し、聖なるものとし、イエス様の復活の命、そこまでされた愛に覆われるのです。
私たちは、神様のこの裁きの中に流された涙・愛、十字架の愛、「コラやその仲間のようなめに会わないため」御子イエス様の命を惜しまなかった神様があなたになさるとしている、神様の御心、愛、恵みによって覆われるこの訴えを、愛を今日、どう受け止めるだろうか。私たちは普通に死にゆくものではなく、神様にあって本当の意味で生かされ、永遠の命、神様の恵みに生かされ歩ませていただこうではありませんか。コラの子どもたちのように神様は驚くべきご計画をあなたのうちに現してくださるから。