ー過失と故意:でも残されていたものー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『…あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも、主が命じられた日以来、代々にわたって主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行なわないときは、もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、主への火によるささげ物、罪のためのいけにえを主の前に持って来たからである。イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。』イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。すると、主はモーセに言われた。『この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。』そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、主である。』」

民数記15章22−41節

 

過失と故意、ここには大きな差がありますね。もしあなたが故意に何かをされた場合、良いよ良いよ、といえますか?実は神様はここは厳密に線を定められています。ただ、だからこそ神様はいつも語られ、その道を示される。放っておくのではなく、そうじゃないよね、と本来の道へと導かれるのです。しかしそれでも神様は憐れまれ、見捨てないためにかのクリスマスに、天に留まっているのではなく人となって生まれてこられ、御子イエス様を私たちの罪の身代わりとされた。その今、私たちはどう生きるでしょうか。この愛があなたのうちに溢れますように。

 

さて、↑は約束の地を偵察し、悪く言いふらした(故意に)ため、ヨシュアとカレブを除く、20才以上で登録されている人はイスラエルの民と40年荒野をさまよい、挙げ句、約束の地に入れない、という宣告を神様はされた、その後、神様が語られたものの続きになります。

 

↑の前では、神様は荒野を40年放浪することになるイスラエルの民に、それでも40年経っても約束の地において、いやどんな時も変わらず、その恵みを溢れさせてくださる、収穫にとませてくださる、神様の憐れみは尽きない事を示されました。

 

これこそが後半の、過失の罪と、故意におかす罪との問題の着地点となるわけです。生贄、これに目がいきがちですが、それもそうなのですが、神様は誰であっても、神様の御前に悔い改めるなら、誰であっても赦されるんだよ、とその門戸を開かれていることを語られています。

 

じゃあ故意に罪を犯したって良いじゃない、何が違うの?と思いたくなりますよね。でも冷静になって考えれば、故意に悪いことをして何でも放置していたら、どうなりますか?された人も、社会も崩壊しますし、した人も、更生する機会さえ奪われてしまう。神様は愛なのに?と思うかもしれませんが、逆に本当の意味での更生・回復の機会さえ失えばもはや愛ではなくなってしまいますよね。放置された、被害者はなおのこと思いの行き場を失ってしまう。

 

だからこそ、神様から離れないで、との切実な訴えが込められているのではないでしょうか。昨日の箇所で見たように、神様のところに全ての恵みが備えられているのだから。神様は時に厳しいことを語られる。なんで?あなたに生きてほしいからです。本当の意味で。あなたに暗闇の中をどんな意味であろうと生きることを願っておられないのです。だからこそ神様は語られるのです。

 

神様は↑で「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである」と語られていますね。

 

どういうこと?と思う方もいるかも知れませんが、これは着物の房につけられるツィーツィットという青色の紐、青は天的な神聖そのものを現すものです。

神様がいつもあなたに神聖、恵みを注がれる、その神様がなさることを見続けるよう、忘れないよう、訴えるのです。後の時代の宗教家たちはただつけてればいい、と形骸化してしまいますが、神様は形だけではなく、本物の愛、恵みをもってあなたを導かれるのです。故意に罪を犯す、というのは「主に向かって手を上げ、逆らって進んで罪を犯すこと」という意味があります。神様の指が私たちが生きる道を指し示してくださるのです。進むべき道、命の道を。神様があなたを神聖な糸を持って、繋いでくださっている、捨てたのではない、帰っておいで、と訴えているのです。その先には神様があらゆる収穫、実を用意してくださっているから。

 

途中に、安息日に薪を集めて死んだ人の例が出てきますが、モーセたちは自分の考えでそれを行ったのではなく、神様の判断を仰いだ。もし、本当に薪がなかったのなら、他の人達も薪を集めに行ったでしょうし、神様も、もしかしたら過失と判断されていたかもしれませんね。ただ、↑の箇所で見るとおり、神様はなにもないように思えるところにも必ず備えて下さる。イエス様も2万人の空腹の人たちをどう満たすか、無視するのではなく、たった5つのパンと2匹の魚で満腹にされたように、神様は驚くべき何かを成してくださる。だからこそ私達は神様の約束、指し示される指の方向をしっかり見、信頼したいものです。

 

神様は神聖なる紐をもって私たちと無関係なものとして切り捨てないため、かのクリスマスに、点にとどまっているだけではなく、人となって(赤ちゃんになってまで)生まれてきてくださり、私たちの間に住まわれ、私たちを癒やし、また教え、導かれ、最後はその命を十字架にかけ死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の房、十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人を切り捨てるのではなく、神様の家族・子として迎え入れてくださるのです。

 

イエス様の命をもってまであなたのうちに愛を溢れさせようとされる神様、そこに何の欠けがありましょうか。そこに溢れる命はいかほどか。故意に何かに走る必要はない。むしろこのイエス様が導かれる、指し示される道に従い続け、ついていかせていただこうではありませんか。その道を開かれた、開かれ、その命とともにすべてを備えられたイエス様と、世の終わりまでいつまでも共におられると約束されたイエス様と。