「しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。主はモーセに仰せられた。『この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。』モーセは主に申し上げた。『エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現われて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。【主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。】どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。【主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす】と。あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。』主は仰せられた。『わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。』」
民数記14章10−25節
ゆるしって大事ですよね。でも、なんでもかんでも、いいよいいよ、だと本当の意味での回復が起こらない。ゆるしは、その前に何かあったからこそお互いに許す、という行為が生まれるわけですよね。その根っこの部分を解決しない限りは本当の回復は起こらない。それでも人間は弱いからどうしても本当の意味で回復するのは難しい、ゆえに妥協し、繰り返されていく。しかしもし神様が間に入るなら、思いもよらない方向に向かっていくのではないでしょうか。私たちは神様を中心とした命ある歩みを、道を導いていただこうではありませんか。
さて、↑は出エジプトから2年、いよいよ約束の地を目前にし、各部族・12部族の中から長を偵察隊として派遣し帰ってきて報告した後の話の続きになります。ヨシュアとカレブは良い報告をした。見たまま、というよりも「神様がいかにこの40日間をまもってくださったか」、収穫物とともに報告するのでした。一方他の10人は残念ながら、同じものを見たはずなのに、巨人族から神様が40日間守ってくださっていたにもかかわらず、彼らがいるからこの土地に行くべきではない、というのです。しかしそれでもヨシュアとカレブが今行くべきと主張します。
ここがまさにイスラエルの民の分水嶺の時となりました。もう約束の地は目の前、神様は与えてくださっていると約束しているにもかかわらず、彼らは恐れをなし、それでも連れて行こうとするヨシュアとカレブに怒りを発し、なんと石打によって殺そうとするのでした。
そもそもそんなに文句があるならどうして派遣したモーセに言わないのか、どうして神様に文句の一つでも言わず、ヨシュアとカレブを直接打とうとするのか。少なくともモーセに間に入ってもらい、神様にどうしたらいいか相談していたらまた話は違っていたかもしれません。しかし、神様は何もできない、と言わんばかりに、神様の与えてくださる恵みを否定したのです。
そこで神様は彼らの手を止め、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」と仰ります。さすがの神様もブチ切れた?いえ、神様は一発でモーセと、もしかしたらカレブとヨシュア以外を滅ぼすこともできたでしょう。しかし、それをされなかったのはモーセの執り成しの祈りを待ったからではないでしょうか。かつてソドムとゴモラの町を一発で滅ぼすのではなく、アブラハムにとりなしの祈りをさせたように、またソドムとゴモラの街に入っても、正しい人がいないか最後まで探させたように。
しかしモーセの望みはそこにはなかった。モーセは神様に「…あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」と願い出ます。自分が有名になることより、強くなることよりも、神様の御名が汚されることを何よりいやだったのです。むしろ、神様の栄光が、恵みが豊かにあることを願ったのです。神様がいなければ、意味がない。どんなに自分が力強くなろうとも、神様がいるからこそ、そこに恵みが広がるんだ、と。
モーセが中心なのではない、神様が中心なのです、と答えるのです。そこには神様を知る人達が出てきているではありませんか、と。神様に従う、神様に留まるところに恵みが広がるのです。結果、カレブとヨシュア以外は約束の地に入ることができなくなりますが、それでも神様は巨人族を避けるように導いてくださります。
ただ、神様はまだ荒野で第一世代を完全に滅ぼし尽くすつもりはもしかしたらなかったのかもしれません。↑を見ると、カレブの名前が挙がっていても、ヨシュアやモーセの名前が挙がっていませんし。神様はカレブの特徴について触れているように心を見ておられるのです。「わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」と神様が語られているように。
この先にはもっととんでもないことが続くのですが、私たちが忘れてはいけないのは、どんな場面にあろうと、40日の偵察期間であろうと、神様に従う、神様を求める心、立ち返る心、ここを中心に神様の与えて下さる相続地は、乳と蜜が流れ広がっていくのです。
御子イエス様は十字架から、何度裏切られ罵られようとも「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願しました。自分が民を切り捨てるのではなく、このいのちをもって、どうか彼ら・私たちが罪を悔い改め、神様の愛を知り、立ち返り、本当の命を得ること、神様との和解を願われた。そして、そこからあなたのうちに新しい命が溢れることを願ったのです。神様の栄光が、御心が。
確かに世の中、何に従えば良いのか、どうしても恐れてしまい、世に迎合してしまうほどに心が弱ることだって人間ですからあります。しかし、ヨシュアとカレブを石打にしようとした民はそもそも神様のなさろうとすることに対して石を投げた。私たちはどうでしょうか。イエス様がそれでもあなたを見捨てないでほしい、と命がけで神様に訴えてくださった。むしろ私達は神様に心を合わせ、神様の御心が広がっていく、変えられていくことを願うべきではないでしょうか。ヨシュアとカレブが石を投げようとした民に反撃するのではなく神様に委ねたように。
私たちは神様の時、なされる御業を待ち望もう。↑の民のように頑なになり、神様にそれでも石を投げつけるのではなく、神様とイエス様の十字架によって和解された関係、「赦し」、そこから広がる神様の御業に大いに期待しようではありませんか。イエス様の十字架の前に悔い改め、この新しくされた命、神様があなたを力づけ、導かれるから、私たちはどんな時でも神様に心を向けようではありませんか。また、モーセのようにとりなし祈り、神様のみ心がなることを祈ろうではありませんか。私の計画、思いではなく、イエス様の命をかけてまで救われた神様の計画がなるように。
