「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。』モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。シメオン部族からはホリの子シャファテ。ユダ部族からはエフネの子カレブ。イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。エフライム部族からはヌンの子ホセア。ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。ダン部族からはゲマリの子アミエル。アシェル部族からはミカエルの子セトル。ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。ガド部族からはマキの子ゲウエル。以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」
民数記13章1−16節
石橋を叩いて渡る。これは時には必要なことでしょう。どれくらいの強度なのか、自分たちがこの橋を、この状況を渡っていけるのか調べるという意味で。しかし、石橋を叩きすぎて壊したり、ときを逃してしまったら何の意味もありません。何より、神様がその先に勝利を、恵みを、祝福を約束されていると言うなら余計にそうです。人間ですから弱いところもありますし、心配なこともあります。しかし、神様がGoサインを出した時、私たちはどれだけ信頼しているだろうか。私達は誰が共に進んでくださっているのかを忘れずにいたいものです。なぜなら救いの勇士、命をかけてまであなたと共に進まれる主がおられるのだから。
さて、↑は出エジプトから2年、いよいよ約束の地を目前にしての準備に入ります。まず神様は「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない」と仰られたのですが、実はこの偵察によって彼らは大きな失敗を犯し、結果約束の地に入れるのは今いる20代以下、以上は↑に出てくるカレブとホセア(主は救い)=ヨシュアの2人だけになります。
話は戻して、今なぜその話を持ち出したかと申しますと、これから彼らは38年間荒野をさまよい歩くことになるのです。そして再び約束の地にはいる際には、実は↑のようなシンプルなやり取りではなかったことをモーセは振り返りながら語ります。
それは、「そのとき、私はあなたがたに言った。『あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。』すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、『私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう』と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った」というものでした。
これを見る限り、神様は「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない」と仰られた。ここにこそ、神様の目的がある。「渡されている」というのはもう渡している、という約束を表す言葉になっているのです。
にもかかわらず、民はこぞってまず偵察に行かせて下さい、と言い寄ったわけです。間違いではないにしても、神様が渡されている、上って、占領するように、と仰っている、恐れてはならない、おののいてはならない、と神様が勝利の約束をしているにも関わらず、です。
おそらくモーセはこのことを神様に申し上げ、その上で各部族から1人ずつとって偵察に行かせた事が見えてきますね。ならば調べてきなさい、神様がいかに素晴らしいものを用意されているかを、そして彼らが無事に帰ってくることをこの偵察の結果見ることになる、はずだったのです。しかし、神様が共におられることを忘れ、もし結果がよく持ち帰れれば、じゃあ攻め上ろう、そんな疑いの心で偵察にこれから乗り込んでいくのです。
しかし、↑に12部族の長の名前が挙げられています。神様はこの部族のおさはだめだ、とかそんなことは仰っていない。またホセアには「主は救い」という意味の名前を与え、彼らは励まされていたはず。しかし、彼らは根本的なことを間違っていたのです。12部族の長を選ばれたのはもともと神様であり、しかも神様は与える、と約束されているのです。しかも、2年の間、様々な事がありましたが、それでも、養われ、どうやっても勝てなそうな相手にさえ、勝利させていただいてきた。またとんでもない罪を犯したときでさえ、神様の憐れみによって赦され、今ここにいる。その神様が共に進まれるというのに、何を恐れる必要があるのでしょう。
自分たちに都合の良い結果であれば従う、そうでなければ諦めよう、それがこの続きの箇所に現れてくるのですが、果たしてそれで良いのでしょうか。神様が長の名前を、またあなたの名前を呼ばれて、占領(「自分のものとする、所有する、受け継ぐ、相続する」ことを意味します)するように、受け継ぐように、と仰られているのです。なんと感謝なことでしょう。それが良かったら?神様が悪いものを与えるお方なら、どうしてエジプトから救い出し、またその道中、民が罪を犯しても見捨てず、なお共に住まわれ、導いてこられたのでしょう。こんな民を養うのはもうやめだ、とマナを止めることさえ神様はすることができるのにそれをされなかった。
神様は、最高のものを与えたいのです。ヨシュアに「主は救い」と名前が与えられたように、神様の救いが私たちの内にもたらされるのです。神様ご自身が与える、受け継ぎ相続するように、と仰られるのですから。それは負債でも借金でもない。神様ご自身が恵まれ、御心を働かせてくださり、そこに、彼らの、あなたのうちに乳と蜜を流される、最良の土地へ、彼らへ、あなたへと神様がしてくださるのです。良かったらもらう、そうじゃなかったらもらわない?私達は神様がどれだけ愛してくださっているか、理解しているだろうか?
主が救われたあなた、その名前が天に記される、回復される、神様の家族として、子として迎え入れるため、神様は御子イエス様を十字架にかけ、死なせてまであなたを愛することを選ばれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、私達に新しい命、救いの道を開かれた。そこにあなたの名前が呼ばれているのです。さあ、わたしの財産を、イエス様によって与えられた新しい命を受け取りなさい、と。これに生きよ、ここに住まうよう、あなたは呼ばれているのです。
モーセは偵察を出すことを良いことと思った、と振り返っていますが、そうなんです。私たちが上る時、神様はあなたに最善を用意して下さっているのを見るのです。体験するのです。パウロは手紙に「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。『この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。』と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです」と書いています。神様は溢れるばかりに満ちたらせ、与えてくださる方です。さらに増し加え、感謝を生み出すほどのものです。
私達はたしかに様々な場所にいます。場面にいます。しかし、神様の愛が、義が永遠に留まっている、復活のイエス様があなたのうちに住まわれ、惜しみないあいを注がれる、み心の種が巻かれ、実を実らせてくださる。私達は今日、この恵みに呼ばれていることに感謝し、良かったら、と試すようなことをせず、応答し、なおこの恵みが溢れ流れること、御心が溢れ流れていくことを切に祈ろうではありませんか。
