ーたとえ今は分からなくともー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。『私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。』彼はモーセに答えた。『私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。』そこでモーセは言った。『どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。』こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。彼らが宿営を出て進むとき、昼間は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。『主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。』またそれがとどまるときに、彼は言っていた。『主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。』」

民数記10章29−36節

 

私たちの人生、山あり、谷あり、まさかあり。人生の地図など存在しないから、この先どうなっているのかわからない、大変なときがいつまで続くんだろう、と不安になったりします。しかし、たとえ今どうなるのかわからなくとも、確かに神様は助けを与え、またともに導かれる。この神様から私達は離れず歩ませていただこうではありませんか。神様ご自身があなたから離れず、見捨てないために、御子イエス様を十字架にかけ、死なせてまであなたを愛することを決断された、この神様があなたと共におられるのだから。そこに待つ神様の最高の計画に信頼して。

 

さて、↑は昨日の箇所で見たように、しっかりと隊列を組んで意気揚々と出発した、その後の出来事です。そんな時、モーセの妻、チッポラの兄弟ホバブに一緒に同行しましょう、「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです」と彼に訴えます。しかし彼が断ると、モーセは「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです」と弱音を漏らすのでした。

 

これまでも、雲の柱、火の柱をもって神様は導かれてきましたし、神様ご自身が山にモーセを招いてともに語り合った。それでも、この荒地、砂漠になれないモーセにとっては、砂漠の民である義兄ホバブについてきてほしい、というのです。モーセでも弱いところはある。それはそう、完璧な人はいない。だってモーセ自身、若い頃に、いくらイスラエルの民を助けるためとは言え、奴隷として苦境に立たされていた民を救うためエジプト人を殺してしまうことだってあったわけですから。これについては神様はお咎めなしだったのでした。

 

ただ、結果的には彼が逃れた地でチッポラと出会い、またホバブとの関係もその時期に築かれていったのでしょう。また、羊飼いをしながらリーダーとしての訓練を知らず識らずのうちに神様に受けさせてもらっていた。そして何より、真の神様とここで出会い、神様の助け、励ましの元、彼はエジプトに帰っていった、ということを考えると神様は無駄なことはされないし、すべてのことを働かせて必ず益として下さる。もしかしたらホバブのように具体的な助けを与えて下さることだってあるでしょう。どんな理解し難い状況に陥っても、神様はいる、これだけは忘れないでいたいですね。まあこれは↑の最後の方にも話はつながるのですが。弱くていい。だからこそ、弱さのうちに完全に働かれる神様に繋がっていようではありませんか。

 

話を戻し、この出来事は果たして無駄だったのだろうか?ホバブがこの後どうしたか、それについては↑では触れられていませんが、実は驚くべきことに約束の地にはいるその時まで一緒に行動し、イスラエルの民とともに生きることになるのでした。しかも、約束の地に入り、それぞれの相続地が与えられる中で、長子ユダのユダ族の相続地の中に、ケニ人としてともに住み着いたということが後の書簡(士師記)でわかります。

 

なんと、私は一緒には行かない、と言っていた彼はこのモーセとのやり取り、モーセの「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです」という言葉に、神様の恵みを知ったのか、神様がくださる幸せこそがベスト、どこかのカルト集団のように人が考えたことに幸せがあるのではなく、今も生きておられる神様が彼を幸せにしてくれる、私たちを幸せにしてくださることを知ってついていったのです。

 

モーセにとって彼は助けになるのと同時に、彼は神様の恵みを知る機会となった。それこそ、彼の父、モーセの義父イテロがモーセに家族を連れてきた時に彼もまた神様の愛に触れ、立ち返ったように、今何が起きているのか、わからないときが私たちにはあるでしょう。しかし、たしかに神様が共におられるのです。神様は出会わせて下さる神様。私たちの必要を備えてくださる神様なのです。なれない土地云々じゃない、神様がすべてを備えて下さる。ホバブにとってもそうであったように。

 

それと同時に、私たちは神様にあって結び合わされる事も見えてきますね。確かにモーセにとってホバブもまたある意味でよわった時の助けになる、でも彼が訴えたかったのは、一緒に幸せになりましょう、ということにある、神様が導かれるこの道を一緒に進み、ともに幸せになりましょう、と。神様が今先頭に立って導いてくださっている、その神様がなされる一つ一つの業、導き、養いを見、確かに神様こそ主なんだ、ということを知るようになる、そのことを願い導いたのではないでしょうか。

 

そういう意味で私たちがどれだけ神様に信頼しているか、神様の向かれている方を一緒に見させていただくか、これはとても大事ですね。私たちが思っている以上の計画を神様は成し遂げてくださるのです。神様は出発前に「…『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう」と語られ、約束されました。私たちは神様が祝福し、守られ、道を照らし、恵まれ、平安を与えてくださる、その神様の導きにどれだけ信頼しているでしょうか。確かに何があるかはわからないかもしれない。しかし神様はご自身の名において誓われ、約束されているのです。

 

こうして神様が先頭に立ち、モーセはホバブと共に出発します。3日の道のりを進みました(シナイ半島の南部のタブエラか、ギブロテ・ハッタワか)。この時モーセは「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。…主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに」と告白します。必要な時に立ち上がって、必要なくなれば帰っていいですよ、という意味ではありません。「幾千万の民のもとに」とあるように、いつでも民のうちに、彼ら、私たちの内にその恵みがありますように、と願ったのです。

 

私たちはこの人生、どうでしょうか。山あり 谷あり、まさかあり。その中にあっても神様が私達をこのように驚くべき方法をもって、またあなたから顔を背けることなく愛し、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に罰せられ、死なせるほどに愛された。でも死が死で終わらず、3日目によみがえられたことによって、私たちの狭く息苦しい、どうしたらいいのかわからない、と思う荒野・砂漠の旅を神様が切り開き新しくされ、神様ご自身が先頭に立って導かれる。私たちは世の終わりまで共におられると約束されたイエス様に私たちも離れず、顔を背けることなく、信頼し歩もうではありませんか。その先に神様が見せてくださる栄光に期待し。