ー本当の謙遜:ちゃんと聴いているよー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エジプトの国を出て第二年目の第一月に、主はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、それをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。』そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべて主がモーセに命じられたとおりに行なった。しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。その人々は彼に言った。『私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時に、イスラエル人の中で、主へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。』するとモーセは彼らに言った。『待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。』主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は主に過越のいけにえをささげなければならない。第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜といっしょにそれを食べなければならない。そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、主へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、過越のいけにえのおきてと、その定めとに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。』」

民数記9章1−14節

 

謙遜さってなんでしょうね。ある意味では、ここ何年か前に流行った、今でも底の部分ではベースにされている「ありのままでいい」と対局にあるのかもしれない。もしみんなが、「ありのままでいい、自分の思うように生きる」としたら一体どうなるか。神様はありのままあなたを受け入れ、聴いてくださる。そしてあなたのうちに御心を、命を注ぎたい。あなたをどうにもならずにありのまま、と意地をはらなければいけない状況ではなく、神様の豊かな愛で包もうとあなたに御手を伸ばされているのです。私たちは意固地にならず、神様に聴こう、神様に委ねようではありませんか。神様はあなたを導かれるから。

 

さて、↑は表題通り、エジプトの国を出て第二年目の第一月に、主はシナイの荒野で過越の祭について語られた内容になっています。そう、実はシナイ山からまだ動いていないのです。出エジプト記からずっと見てきていますが、続きの箇所でも見えてくるのですが、神様(雲の柱・火の柱)が動かれる時に民は出発し、とどまっている時は動き出すまで留まっていたのです。それは年数にあまり関係なく。それはある意味で今日の箇所とも連動しているのですが。あまりに長くなるので、↑で一度切ります。

 

話を戻して、このとき神様はモーセを通し、「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、それをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない」と仰られました。過越の祭りを行うように命じられます。

 

過越の祭り、神様がエジプトから救い出されたことを記念して行うものです。最初の過ぎ越しの祭は出エジプト記12章まで遡るほど前のことなので、振り返りますと、神様は(エジプトを出るときを第一の月として、第一の月)あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたはパン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない」と、代々に渡り行うように命じられます。

 

まあ実際のところは、この出エジプトをするとき、↑のシナイ山での時、そこからは驚くべきことに、40年先、約束の地に入れなくなった第1世代と入れ替わり、ヨシュアがリーダーとなって約束の地に入る時、その次はなんとその500年も先、ソロモンの治世の後期に行われ、さらに時は進み、古代南ユダ王国の王ヨシヤが宗教改革のために行うBC637年、そしてバビロン捕囚から解放され、神殿が再建された時、記録上はたったこれだけしか行われていない。

 

歴史をご存じの方は、イスラエルがどれだけ苦労したか、捕囚も含めてかなりあります。そう考えると、過越の祭り、と言うよりも神様の恵みに帰る、ということをないがしろにした故に、神様との関係が徐々にまあ、ありのままでいいでしょう、という感じになっていった、その結果ではないか、とふと思う。この先の時代も、神様から離れる時にいつも困難がやってくる。それはそうです、神様が彼らを守っているのに神様を拒否するのであれば必然といえば必然。それでも悔い改め立ち返るとき神様は助けてくださるのですが。

 

しかし、↑で一つ問題が起こるのです。おそらくタイミングの問題か、死者に触れなければいけないことがあった、その結果、汚れたままではレビ人として奉仕することができない(これまで見てきたとおり)、それでこの過越の祭りに自分たちが参加できないのか?とモーセに尋ねたのです。

 

タイミングが合わない、でもここでモーセと彼らのすばらしい態度が見て取れますね。モーセは自分勝手に解釈して、いいよ良いよ、なんでも良いよ、とするのではなく、わからないことはわからない、と神様にきちんと尋ねたこと、また汚れてしまったと言えども神様が招かれた、その恵みを、喜びを求め、まあ今回は良いや、ではなく何とか参加したい、という意思が↑にみえないでしょうか。モーセも、彼らも、神様を何が何でも求める。その中に神様は応えてくださるのです。神様との関係を曖昧にしない中に神様も全力で応えてくださるのです。

 

神様は第2の月の14日に持たれる過越の祭り、これに参加するようにと言いますが、実はその内容は第1の月に行ったものに劣るものではないことが↑を見てもわかるのですが、神様は神様を求める人に、決して劣ったものを出さない。もちろん、私達が早くに神様と出会うことはベストです。しかし、同じ恵みに何とか与らせたいのです。永遠の命、神様の子として御国を相続するものとして。イエス様が十字架にかかられ死なれたのは、それほどまでの愛を注がれたのです。御子イエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持つことを願っておられるのです。

 

私たちはこれほどの愛を受けた今、神様の御前にどう歩むでしょうか。曖昧な関係やまあ今は良いや、と適当な時に神様を求めればいいや、ではなく今、いやいつでも神様の恵みを求めようではありませんか。私達が思う以上に神様はあなたを愛し、劣ることのない恵みを注がれるから。