ー荒廃・苦境の中にあっても:後はよろしく、ではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。…』」

レビ記26章27-39節

 

問題が起こると、どこかでそれを回復させようと検証するなりし、回復の方向に向かおうとします。しかし、聖書に「罪から来る報酬は死」とあるように、これを放置すると荒廃していってしまう。しかし、神様はそれを良しとは思わない。放置しようとは思わない。あなたが生きる事を願われる故にあなたへ道を示され、命なる神様があなたを回復させようと語られる。私たちは遅すぎる前に、いやいつも神様に耳を傾けよう。神様が本来与えようとされている恵みに生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、この章は祝福の約束で始まりましたが、従わない時に起こること、↑はこれまで見てきた問題に決定打を打つ、国土の荒廃・民の離散について語られていきます。徹底されてますね。約束の地についた後も神様から離れ、捕虜にされたり、神殿の奉納物が奪われたり、飢饉、食糧難に襲われ、最後はアッシリヤ、バビロン捕囚によって完全に、せっかく神様が与えられた土地が荒廃します。またその後、捕囚からペルシャ帝国の手によって解放されるも、ローマ帝国によって最後は離散される。

 

では神様は自分に従わなければもう知らん、と放置するのか?滅ぼし尽くすのか。でも少し冷静・シンプルに考えて下さい。どんなに良い家を建てても、それを放置していればどうなるか、聖書じゃなくともわかるでしょう。花を手入れをせず、水も蒔かなければどうなるますか?それは神様の責任ですか?後は神様、よろしく、なのですか?そうではありませんよね。神様は私達が神様のところに帰ってくる・方向転換する、悔い改めるのを待っておられる。だからこそ、仰る事は厳しいですが「予め」彼らに、私たちに語られるのです。

 

イエス様は天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』…ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

 

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです…」とたとえをもって仰られました。

 

確かに、↑の徹底した破壊・荒廃・離散は厳しい。しかし、神様はいきなり裁かれたのではなく何度も何度も悔い改めの機会を与えてくださっていた。何度も与えられた恵みを失わないように神様は「予め」語られていたのです。彼らはこれから与えられた土地を目指していきます。しかし、その与えられる土地をどうするかどうか、それは彼ら・私達に問われるのです。

 

イエス様のこの例えはたとえうまく商売が行かなくともそれでも、罰することはないでしょう。しかし、最後のしもべはタラント(=タレント)を放置していたのです。神様はそのタレントを通して彼に与えた命、土地、それらを広げてくださるはずだった。しかし、せっかく与えられていた恵みを、どうせこの程度と投げ打ってしまった。神様が任せた、与えていた分をこの程度、と。

 

神様は与えてくださる方です。私たちが遣わされた場所、与えられた命のうちに神様は恵みを注がれるのです。実際荒廃した土地にイスラエルの民は帰ってくることになります、再建していくことになります。また、捕囚中も神様は助け手を捕囚先の高官においたり、身近に預言者を遣わしていたりと、神様は色を失わないように。彼らが滅ぼし尽くされないように。

 

神様の願いは↑では終わらない。そうならないように、神様の御目は注がれている。助け導こうといつも語られ、その道を示そうとされている。私たちはこの厳しい警告に耳を傾けるだろうか。厳しい試練の時に神様を諦めていないだろうか。神様はあなたを諦めていません。

 

アサフという人は「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう」と詩を持って、苦境の中でも歌いました。

 

あなたを諦めない神様は、それでも神様の愛に気づかず、「神様、後はよろしく」、となげうつ私たちのために、この色を失い荒廃した私たちをもう一度回復させるために、言って終わりではなく、行動に移された。御子イエス様に私達の罪を、一切を背負わせ、十字架上で精算させ、命の荒廃、死なせたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、その荒廃は回復させられ新しくされたのです。この救いを受け入れるあなたをも。

 

12弟子でありながらイエス様が逮捕された時、イエス様を否定し、最後は呪いをかけてまで否定したペテロは後に悔い改めその手紙に「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」と書き残しました。

 

私たちは「後はよろしく」と神様のくださっているこの命をなげうってはいないでしょうか。私達はイエス様に繋がっているからこそ実を結んでいくのです。どんな時であろうと、嵐吹き荒れる時でもイエス様はあなたから手を離さず、恵みで回復させ、命溢れさせたいのです。私達はどんなときでもこのイエス様が与えてくださる生ける望みに、現される御心、広がる御国に思いを馳せ、イエス様と「共に」歩ませていただこうではありませんか。