ー春の祭り3:与えられた最高の収穫物ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。…』」

レビ記23章9-14節

 

私達は時にいつになったら実を結ぶんだ、と何かをする。でもなかなか実を結ばないとどうにもいたたまれなくなる。ある映画で、「雨が降ってから畑の準備をするのか、雨が降ることを信じて畑の準備をするのか」という問いを悩んでいた人にチャプレンがしていました。実りというのは偶然起こることではありません。神様が注がれ、収穫させてくださるのです。私達はまことの農夫である神様に信頼し、神様の与えてくださる真の命に生かされ、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は「神様が」制定された祭り、春の例祭の3つ目のの祭り、「初穂の祭り」というものになります。「過越の祭り」「パン種(イースト菌・酵母等)を入れない祭り」に続き語られるものです。「初穂の祭り」、まあおおよそ読んで字のごとく、と何となく感じるでしょう。しかし実はこの祭りにはものすごい恵みが隠されている。ただ収穫した最初のものをささげるとかそういう次元を超えた、素晴らしい恵みの祭り、それを「神様が」制定してくださった、神様が収穫させてくださるという約束、何と感謝なことでしょう。

 

話を戻し、「ついで主はモーセに告げて仰せられた」と、この祭りについて始まりますが、何となく読み飛ばしてしまいますが、「ついで」とありますね。ただ、私にはただの接続詞には感じないのです。というのも、神様が接続されている、どこかで私達との関係を途切れさせないように、神様は私達をつなごうと、命ある私達、あなたへとつなぐべく、いつも「ついで」何かをあなたに語られる、導かれる、されるのです。

 

イエス様はこんな例え話をされていました。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と。

 

さらに続けて「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と仰られました。

 

イエス様はこの例え話の中で、神様が実を結ばないものを取り除くと、すごい言葉をイエス様は語られていますが、実はこれ、イスラエルなどでは地を這うため、栄養がなかなか土から得ることができないので、その這って栄養が行き届かないものを「持ち上げて」栄養を行き届かせてくださる。仕えないものは切り捨てる、のではなく、もっと私達が実を神様に会って与えられる、収穫できるようにいつも私達を養ってくださっているのです。

 

先程の「ついで」ではありませんが、神様は私達をある時は心配し、ある時は放置しておく、なんてことはなさらないのです。まあ逆に私達が神様からはときに応じて離れてしまうのが現実ですが。農夫たる神様が私達をいつでも、養われる。本当の命あるものとなるために、多くの実を結ばせていただくために。いや、結ばせてくださるのは神様。だから私達はしっかり繋がっていなければならないのです。イエス様たるぶどうの樹に。そうして私達はイエス様の喜びに満たされるのです。私達がイエス様の愛の中にとどまる、その中に喜びを溢れさせてくださる。どうにもならない、いつになったら成果、収穫を得るんだ?と思う中にあって、私達が思いもよらない何かを成してくださるのです。

 

話を初穂の祭りに戻しますが、神様はモーセを通して「わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る」と断言されています。神様はどんな状況にあっても、必ず「束」、ちょっとではない、束となるほどの収穫を得させてくださる、どんなところかはわからない中、どうしたらいいのか分からない中、神様は、私達に驚くべき多くの収穫を得させてくださるのです。これをもっていったら私達はどうなるんだ?と思う必要はないのです。神様が最初に「束になるほど」の収穫物を得させてくださる、そのかみさまが「ついで」養い続けてくださる。それは私達の神様への信頼の行為に他ならないのではないでしょうか。

 

そしてさらに「祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない」と続けます。

 

この「束を揺り動かす」というのは、色んな意味があるようです。ある人は、祭司が十字を切る、とか、ある人は復活の型だという。ただ、言葉の意味を見ると「(雨を)注ぐ、神の賜物として与えられる」という意味を持っているそうです、そう、神様の賜物として、私達は生きるすべての道において神様の恵みが与えられる、注がれるのです。

 

そして「主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる」とある通り、まさに神様の大切な傷のない、罪のない御子イエス様を全勝の生贄とし、私達の罪を取り除かれる、そして3日めによみがえられたことによって、このイエス様の救いを受け入れる全ての人は新しくされるのです。先程の復活の型、というのはそういうことなのです。

 

神様の霊があなたの内に注がれ、あなたを養い導かれる。それは「これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである」とあるように、どこにいても、どんな場面にあろうと、神様もこの契約、イエス様の十字架にある救いによって永遠の神様の愛へと招かれ、その中に神様が多くのみを、収穫を得させてくださる。復活後、多くの人が悔い改め、救いを得ていったように。今こそ、私達はこのイエス様に帰ろう。そして、神様側から揺り動かされた、注がれああ得られる命のうちを歩ませていただこうではありませんか。