「『…この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。』」
レビ記23章6-8節
私も色んなスポーツをしていたので、冬が近づくと古傷が痛む、と言いますか、やはりどうしても取り除けないものがありますね。神様に大いに用いられたパウロでさえ、取り除いてほしいと何度も願い求めた目の病は結局の所癒やされず、それが帰って他の人をも励ます形となったのですが。人の体には、また人間関係にはどこか棘があり、残ってしまう。しかしその棘を神様は取り除き、痛みを癒やし、本来あるべき関係に回復させてくださる。罪という棘を。私達はこの神様に本当の意味で癒やしていただき生かされ歩みたいものです。
さて、↑は「神様が」制定された祭り、春の例祭の2つ目のの祭りになります。「パン種を入れない祭り」というものになります。これは昨日分かち合わせていただいた過越の祭の次の日から7日間、パン種(酵母・イースト菌)を入れないパンを食べることになります。教会では、月に一度のところや毎週行っているところもありますが、イエス様の十字架による救いを覚えて聖餐式というものを行います。このときに、パンとぶどう酒(ジュース)を聖別し、いただくのですが、場所によってはそれこそ、パン種の入っていないマッツァーというものをいただくところもあります。
そういう意味では、他の祭りもそうなのですが、実は昨日分かち合わせていただいた過越の祭りがまず前提にある、神様の憐れみがあり、その上でそれぞれの祭りを「神様が」制定されたのです。ということは、その恵みはやはり変わることはありません。神様は恵みを注ぎたいのです。あなたの内にある様々な思い煩い、罪を取り除きたいのです。
イースト菌を入れるとパンが膨らむことから、罪の象徴として、このパン種を入れないパンを食べることを神様はおっしゃります。罪にしても、思い煩いにしても、それによって人は傷つきます。それを神様は取り除きたいのです。神様が取り除いてくださる、救ってハイ終わり、ではなく、神様は神様の恵みであなたを溢れさせたいのです。
そもそもなぜパン種を入れない祭りがあるのか。それはこのようにモーセは記録しています。「あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。
最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたはパン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない」と。
そしてエジプトから急き立てられ、でていく時にイスラエルの民は、それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついで出発するのでした。ちなみに考古学の研究で、外国人が住んでいた居住区で、1晩で人があとかたもなくいなくなった、という形跡が発見されているそうです。
話を↑のパン種を入れない祭りに戻し、過越の祭りの翌日から7日間(15-21日)、パン種を入れないパンを食べるわけですが、必ず安息日がその期間に入るようになっています。そう考えるとやはり神様の祝福は継続的。先程聖餐式の話をしましたが、このパン種を入れない祭りもそう、形だけとりあえず食べればいいや、というのはあまりにもったいない。1日だけ、とは言わなかった。7日間行うように、と。しかも最後の「七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない」というのです。
神様は聖なる日と7日目を定められた、神様は仕事はもとより、様々な思い煩いなどであなたの内側を満たすのではない、罪で満たすのではない、神様は7日間、つまり継続して祝福され、さらには、聖なる日として神様は祝福される、あなたを完成に導かれる。もちろん、罪からいつも離れている、という意味もあるでしょうが、それ以上に罪に支配される、様々なことによってあなたが支配されることを良しとできない神様は、あなたを解放したい。そして次の祭り「初穂の祭り」につながるのですが、あなたの内に豊かな実を結ばせてくださるのです。
序論で、1世紀に活動していたパウロについて言及しましたが、この時のことについてパウロは「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と、その手紙に書き残しています。
私達のうちには何があるでしょう。パウロは、おそらく目の病気を持っていたと言われているのですが、そんなものが自分の内にあるなんて気分がいいはずがありません。しかも、イエス様も癒やしを行われたし、使徒たちや彼自身も癒やしを行った。でもそれは神様の御力によるのであって、自分でするということはできません。しかし、神様は彼の内側が高慢な心で満たされることよりも、この病によって神様に頼るへりくだる心、その家に働かれる神様の十分すぎるほどの恵みで満たしたかったのです。
私達は自分がなんとかいいものでありたいと、様々なものをパン種のように取り込み、一つのパンのように完成させようとしていきますが、しかし、それでは不完全、と言うよりも歪なものにしかならない。もちろん素晴らしい人はたくさんいます。しかし24時間365日完全な人など見たことがない。しかし、神様はその道からによって私達が強いと思っているだけの本当は弱い私達のうちに「完全に働いてくださる、強くしてくださる」のです。何より、神様ご自身があなたの内に神様の御働き、御力が、ご計画が現されるのです。3度の祈りを超えた神様の完全な働きが私達が諦めるような状況にあって、全てを益としてくださるのです。
1日だけなんてもったいない、ある時は神様を覚え、ある時は良いや、と排除する、それは本当にもったいない、神様の恵みは十分、あなたの内に豊かに働かれ、生かしてくださるのです。あなたのために御子イエス様は身代りにパン種、思い煩い、罪、一切を背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。イエス様の命を欠けてまであなたを救おうとされた、その先にある計画のどこに不完全さがありましょう。私達の目から見たら足りなくとも、いつも神様はあなたのうちに大いなる恵みを注ぎ、豊かな実りを、その復活とともに実らせてくださるのです。
私達はこのイエス様のいのちのパン、その裂かれた肉、まことの、いのちのパンによって命あるものへと変えていただこうではありませんか。あなたの内を思い煩いや罪に膨らまさせてはいけない。私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
