ー愛ゆえに2:向かうべき方向ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし、動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現わしたのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。…』」

レビ記20章10-21節

 

最近、子供にどうやって僕は生まれたの?という質問を不意に受けました。ある本によれば、まず慌てないこと、ということが書いてあったのですが慌ててしまいました。ただ、うちはクリスチャン家庭なので、親の親の親の…行き着くところはアダム、そして、そのアダムを神様が創られたんだよ、と話してそこは終わったのですが、なかなか話しづらいことってある。でも曖昧にしてはいけないこともある。だからこそ神様は時には私達の耳に痛いこともかたられる、でもそれは私達が辱めを受けるためではなく、いのちの道へと導くためなのです。神様の言葉は私達の足の灯火、道の光。この方に信頼し、導かれ、歩もうではありませんか。

 

さて、↑はもう、読んでいて何を分かち合えと言うんだ、と思うくらいありえない話。でも、今の世の中これがあるから怖い。その乱れがソドムとゴモラの町の滅亡の一つの原因ともなっていたのですが。

 

ある人は人の関係を神様にとやかく言われたくない、と言う人もいるでしょう。これは実際に耳にします。時にはクリスチャンであっても。どうせ結婚するんだし、とか。でも、あることは神様に相談したい、祈りたい、でもあることは関わってほしくない、それ事態がむしろ問題。何より神様はあなたの全てを心配してくださっている、だからこそむしろ↑のようなケースで悩むなら、まあ最近でしたらLGBTQ+ですか?そういうケースも神様に祈ってみる、神様が答え、導いてくださるのではないかな、と思います。神様は聴いてくださるから。というよりも、神様は共同体に向けて語られているわけですし、そういう体制が教会にあるのが理想的なんですけどね。

 

話を↑に進めて、色々なケースを神様は挙げています。その前に18章で、神様は、母 、父の妻(継母)、姉妹、孫娘、継母の娘、叔母、義理の叔母、嫁、兄弟の妻、同時に母娘をめとること、同時に姉妹をめとることを禁じています。その上で、↑で死罪になるケースは、他人の妻、父の妻(継母)、息子の嫁、ホモ・セックス(同性愛?)、娘とその母、獣姦、姉妹、月経中の性行為を取り挙げています。また、子供の生まれ無いケースとして叔母、兄弟の妻が取り挙げられています。

 

まあこれに本当に悩む人もいるので非常に難しい話です。こんな事を言われたら傷つく、とか、当事者にとってはある意味苦しい。でも、神様は心配してくださっているんだな、というのを私は↑を読みながら感じます。これまでの死刑制度とかの箇所を読んでいても、そうならないことを神様は願っておられる。だから、神様の方に向いてほしい、相談してほしい、祈ってほしい、そう願っているのではないでしょうか。特に立場の当時弱かった女性たちを神様は守ろうと、そのように訴えられているのではないでしょうか。まあ現代社会では話は別かもしれませんが。

 

↑のようなケースもそうですが、私たちが向き合うべきは問題ではなく神様です。神様が、あなたのことを心配してくださっているからです。パウロも「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と勧めています。神様が、あなたを守ってくださる。どんな場合でも祈っていい、神様は私達を、あなたを平安で満たしてくださるから。

 

確かに、現実↑に書いてあるような死が訪れる、子が生まれない、ということはないですが、しかし、アダムとエヴァのケースのように、食べたら死ぬ、でも死ななかった、でもそれは霊的なしであり、いつか本当に肉体の死を迎えました。また息子の嫁と関係を持った12部族の一部族の長、ユダとタマル(息子のお嫁さん)と関係を、事情があったとは言え持ち、子供が生まれ、その子孫からイエス様の養母となるマリヤが誕生します。ダビデも。まあその後ユダに子は授からなかったのですが。

 

また同じ12部族の1部族、しかも長男ルベンは父が妻を失った時(事情で妻が2人、授からなかった間、奴隷が2人いて、その間に子供が与えられています)そのうちの一人と、床を共にし、彼は長子の権利を失ったのです。長子の権利は神様の祝福であり、この長子の権利を蔑ろにした人を神様は実は聖書の中で何回もふれています。問題視されています。

 

そう、神様との関係が壊れる、それを神様は危惧されているのです。あれはだめ、これはだめ、でがんじがらめにするのではなく、神様のくださる恵みを見ていてほしい、あなたが神様から離れ、霊的に死にゆくことを我慢できないのです。彼らが、私たちが、神様からの恵み意外のものを望んで何になりますか。世の楽しみ、誉れがどうして神様の与えてくださる楽しみ、誉れに勝るでしょうか。

 

同時に私たちは弱いものです。先程も、この言葉はイスラエルの共同体に向けて語られている事を書きましたが、パウロは「あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです」と手紙に書き残している、誰かが悩み困っているなら、執り成しの祈る中で、神様にある平安、御心が満ち溢れるのではないでしょうか。そこには神様にある救いが待っているのではないでしょうか。

 

イエス様は「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と尋ねられた時、イエス様は彼に「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と答えられました。私たちは何処を今日向いているでしょうか。まず第一には神様を、それと同時にこの神様に愛されたのだから自分を大切にし、また隣人を愛する、祈る、この事を忘れてはいけない。

 

なにせあなたも、あなたの隣人も、心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くしてあなたをあいされた、十字架でいのちを惜しまずかかられ死なれるほどに愛された、そのあなたを新しい命へと引き上げようとされている。私たちは今こそ、このイエス様の愛に立ち返り、イエス様に生かされ、導かれ、命の道を歩ませていただこうではありませんか。世の終わりまで。