ー癒やされるだけではなくー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。…』」

ルカによる福音書6章17-20節

 

時代が経つごとに様々な病が出てきいます。いや、気づかなかっただけで表面化されただけなのかもしれませんが。心の病もそう。身体の怪我もそう。治療すれば大概は治る。でも、本当のドクターたる神様に私達は信頼しているだろうか。普通のドクターは24時間心配してくれるわけではない。でも神様は24時間365日あなたの霊肉共に心配してくださっている。私たちはなにか食料や薬とか、そういうものだけで生きるのではなく、このかみ様の口から出る一つひとつの言葉、いや恵みそのものによって生かされる。私たちはいつもこの方から離れず歩もうではありませんか。

 

さて、↑は12弟子をお選びになった後の出来事。多くの群衆があちらこちらからイエス様を求めてイエス様のみもとに集まってきたのでした。彼らは「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである」と記されている通り、ただ癒やしを求めてきたわけではなかった。最近、ただ癒やされれば良い、なにか問題が解決すれば良い、という風潮が見られますが、もちろん彼らなりの目的があってついていった、後に離れていく人達もいる。

 

でも、なぜ「イエス様の教えを聞き」ついてきた人たちがいたのか、ふと考えさせられた私たちは何処かが癒やされればそれでいい、というわけではない。本質的に、神様のいのちに生かされ、神様の愛、恵みそのものが私達を本当の意味で自由にしてくださる。当時の宗教家たちも神様の教えはしていた、でも彼らはその教えに自分たちの自己解釈や、立場を守ることばかりに利用し、話していた、それに辟易としていたのではないか、民は。たから、イエス様の復活後、イエス様の福音を聴いた多くの人たちが救われていったのではないか、と思う。

 

今引用した箇所のように、確かにイエス様には力があります。盲人の目を開いたり、聾者の耳を癒やされたり。長血の女性(女性のあれが12年間止まらなかった女性)を癒やされたり。悪霊を追い出されたり。イエス様にできないことはない。まあ、罪を犯す、ということはできませんけど。でも本質的には、イエス様は罪人を招かれるためにこられた。と言うよりもイエス様を必要としない人などいない。いらないいらない、といってもイエス様なしには生きてはいけないのです。

 

自分の思う通りにならなければ救い主ではない、と離れていく人、せっかく救われているはずなのに神様から,教会から離れていく人。色んな人がいる。経済が祝福されているときは神様から離れ、貧しくなると帰ってくるなんてこともある。

 

でもイエス様のもとにはすべてがある。力があるのです。私たちはパンだけで生きるのではなく、イエス様の口から出る一つひとつのことばによって生かされる、恵みによって生かされるのです。イエス様は罪人を救うためにこられた、と先程書きましたが、まさに排除するのではなく、一緒に食事をし、また招かれる。取税人のレビ(マタイ)の話でも見ましたよね。イエス様は、偶然ではない、彼を思い煩い、罪から救うため、イエス様ご自身から彼のもとに行き、彼を招かれたのです。

 

イエス様は大きな力がある。「群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである」とあるように、イエス様はあの人はだめ、この人はいい、とかではなく、「すべての人が救われる」事を願っておられる。だから、癒やしだけではなく、語られるのです。語られる一つひとつの言葉に力があるのです。

 

↑の最後に山上の垂訓と呼ばれる最初の部分をあえて入れたのは、まさに私達の魂の貧しさ、イエス様を求めるその心を持つ人は幸いなのです。ただ癒やされれば良い、問題が解決すればいい、ではなく、イエス様御自身、イエス様のうちから出る大いなる力を私たちは受ける。愛を受けるのです。イエス様を求める中で。その中に神様の国が広がっていく。あなたの周りにも。神様のご統治、恵みがあふれる場所へと変えられる。自分の求める何かではなく、私達はイエス様ご自身を求めたいものです。イエス様などいなくても大丈夫、という人もいるかも知れませんが、それでは自分の力の範囲でしかならない、最後は廃れていく。

 

イエス様は私達を救うため、罪を赦し神様の家族として招き入れるため、私達の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、この救いを成就された。信じうけいれるすべての人のうちに復活のイエス様は住まわれ、その御恵みによって豊かな神様の御心が、御力が、御国が広がっていく。

 

あなたは今日、イエス様のみ前に霊において貧しく、イエス様を求め近づかせていただこう。イエス様は喜んで私達をうけいれ、その大いなる愛を注がれ、本当の意味で生かしてくださるから。