ーすてきな関係4:憎まず愛する、けどー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。…』」

レビ記19章17-18節

 

愛、愛、愛といいますが、愛ってなんでしょうね。何でも受け入れること、そのままにしておくことでしょうかね?もし医者が病気を知りながら、大丈夫ですよ、と安心させるために、病気のことを無視したらどうなりますか?最近、指摘をされたら(指摘された人がすべきことをしていないことを、怒るというよりもやってね、的に)、その人と一緒に働きたくない、と大事になったことがあったそうですが、それはその人のためにならない。まあ、これを書いている私も耳の痛い話ではあるのですが。それでも、人は感情的にどうしてもなりやすいから、指摘しているつもりでも正しい方向に導けないこともあります。しかし神様は、愛ゆえに、あなたが命の道を歩むことを何よりも願い、また喜ばれる。私たちはこの神様に信頼し、神様の照らす道の光、この上を歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない(聖なる者とされるだろう)」から始まった、神様の語られていることの一部です。そもそも「聖」ということばと、憎しみとか、復讐とか、恨む、という言葉はかけ離れたものですよね。どうしても人はなにか言われるとカチンとまずきてしまう。これはある教会の牧師と色々話をさせていただいていた時に、牧師もそうなんだよ、と仰られていたのをよく覚えています。

 

その上で、とても大事になってくるのが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という神様の言葉私は聖書の分かち合いをする時によく、「隣人」という言葉を使いますが、これは別に隣人(りんじん)、隣に住んでいる人のことをさすわけではありません。もしくは仲が良い、きちんと起立を守っている人が隣人、というわけでもありません。あなたの苦手な人も、隣人なのです。

 

神様は「心の中であなたの身内の者を憎んではならない」とおっしゃっれていますが、まず身内、これは家族だけではなく、共同体の中の人、同じ部族、氏族などをも指していると言っていいかと思いますが、イエス様はある時、このように仰りました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって(理由なくして)腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。…『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と。

 

実際に言っていなくとも、していなくても、心の中で思っていることはそれをしているのと同じ、というのです。本音を言えば、私たちは口に出さないだけで結構心で色んな事を思っていたりしていますよね。心のなかで憎む、それは自分の中で消化しきれていない。だからそれがいつまでも残ってしまう。そんな私たちにイエス様は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と仰られます。むしろ祈る、その中に神様が働かれる。その時私たちは平安に満たされるのではないでしょうか。

 

憎む、復讐する、そういうのはある意味では容易いことなのかもしれない。でもそれはなにかを破壊してしまう。神様は命の、恵みの中に私たちに生きてほしい、それなのにそうした物に縛られるあなたを見てどうして悲しまずにはいられましょうか。憎むよりも、愛する、もっというならば、神様を愛する、神様に委ねる、その中に神様は豊かにあなたのうちに働かれるのです。

 

それにしても「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない」という神様の言葉は、愛とかけ離れているように見えますが、しかしその人の抱えている問題を放置するのはどうでしょう。イエス様は「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」とも仰っています。「悔い改める」、神様の御前に立ち返る時、その人のうちに神様が働かれ、その人の内に神様の恵みによって変えられていく、回復させられていくのではないでしょうか。神様の赦しが働なら、愛の反対の無関心でいるよりもずっと豊かな実を結ぶのではないでしょうか。

 

だから、私達は復讐するのではなく、神様に委ねるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」といいますが、ある人は随分上から目線だな、と感じる人もいるかも知れませんが、実はこの「あなた自身のように」ということばは、自分自身と同程度愛する、ということではないのです。正確に訳すと「あなたと同じ(立場にある)人間として」という意味なのです。上から目線で愛する、とかなにかをする、というわけではなく、むしろ、私たちが忘れてはいけないのは、あなたの隣人も、やはりあなたと同じ神様によって造られた大切な存在なのです。どうしてその隣人を憎しむ、復讐する権利があるだろう。

 

そう、聖なる神様であり、あなたの主である神様を求めること、そこから全ては始まる。私たちが悔い改め神様の身元に立ち返ることから始まる。あの人がどうだ、こうだ、ではなくその前に自分のうちに何か問題はないか、誰かを傷つける、神様を悲しませるようなことはないかを探っていただき、聖めていただき、神様の御心を求め、隣人と歩む中に神様の栄光が現されるのです。

 

イエス様をためそうとした律法の専門家が、「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」と尋ねるとイエス様は、『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」と仰っていますね。どちらも欠かせない。と言うよりも神様が中心となる時、そこは神様の栄光に満ち溢れる、愛で満ち溢れるのです。正しい愛で。

 

1世紀に伝道していたパウロという人は手紙に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」と書き残しています。

 

私達が全うさせる、と言うよりも神様が完全にその愛を表してくださるのです。私達が神様の御前から離れ、好き勝手に生きてきた、神様を害する私たちの罪を御子イエス様は身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、裏切った弟子たちも含め、十字架にかけた人達も含め、このイエス様の十字架と復活の前に悔い改め立ち帰る全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、このすてきな関係のうちに神様の愛が溢れんばかりに、全うされていくのです。

 

別に自分が良ければ良い、そんなことはない。そこになにか生まれるでしょうか?私たちは神様の愛を知って初めて愛することを知り、できるのです。そこに神様の愛が溢れるのです。神の御子たるイエス様が、同じ立場に、人間になってまで、いやそれを超えて命を賭けてまであなたを愛された。この愛に生かされ私たちは、イエス様と歩ませていただこう。人は一人では生きていけない、愛を受けなければ生きていけない。命をかけられたイエス様の愛が全うされるこのすてきな命をイエス様とともに歩もうではありませんか。