「『…おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。…』」
レビ記19章3-10節
赤ちゃんがお母さんの胎内にいる時、安心できる理由が2つあります。まあ、正確には1つなのですが。それは、お母さんに守られていること。そして、神様ご自身があなたを胎内で形作られ、ご計画を持ち、なおお母さんを通して守られる。まあ、様々な事情で流産、死産なども起こり得るのですが、これはなんとも言えない。私の姉も心臓に穴が空いている状態で生まれてきて5日で召天。私が生まれてくるまでの間、母は合わせて4回、流産・死産を経験していますし。こればかりは理由は神様に天国であった時に聴けるのかな?お姉さんにあえるのかな。でも、胎内にいるときだけではなく、私たちは神様につくられたもの、神様が主として私達を養い守られ導かれる。今日あなたがこの神様に生かされていることを喜び、信頼し、歩もう。神様のなされるご計画に期待しよう。
さて、↑は一昨日の分かち合いの続きになりますが、神様はまず「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」という言葉を語り、これが土台となって↑の箇所、また続きの箇所も続いていきます。
ただ、私たちはどうやっても聖であり続けることなどできないことを一昨日見ました。大祭司にしても祭司にしても、民にしてもこれまでじゃあ聖なる生活を送ってきたか、そう言われたらはっきり言ってNo。出エジプト記の中で何度も彼らの過ちを見てきましたし、この先の箇所でも起こってきます。また私たちだって、まあいいほうじゃないかな、と思っても実際はどうだろう。ただ言えることは、聖なる神様が私達を聖としてくださる、聖なる御心を注がれる、神様は「あなた方の神、主である私が聖であるから」と、その根拠を語られている。あなたの主なんだ、だから迷うとき、辛い時があっても、信頼して良いんだよ、委ねていいんだよ、と訴えていたわけです。私たちはそういう意味で、「尊敬」という言葉は失礼かもしれませんが、神様を敬う、信頼して歩みたいものですね。
その上で↑も含めて様々なことを訴えます。あまりに長いので今日は↑まで取り上げます。今日の箇所は十戒で見た内容が含まれていますね。「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である」と。
まずこの部分ですが、いちばん大事なのは「わたし(神様)はあなた(がた)の神、主である」ということ。これは何度も何度も強調されています。だからこそ、なんです。世の中親子関係が非常に悩ましいこともあります。もちろんうまく行っているときもある、行かないときもある。でも恐怖する、という意味での恐れる、ではなく従う。神様に委ねる。神様があなたの主だから守ってくださる、だから知恵を与えられるように祈ることも一つでしょう。
私たちが親子関係もそうですが、どうにもならなくなって、自暴自棄になって、なにかに心を移す(偶像に心を移す、ということは偶像を作ってそれを拝む、以上にそれにすがりつく)のではなく、神様が聖なる日と定めた、あなたに聖なるなにかを注がれる、特別な祝福の日、安息日を、格別に聖別して神様からの恵みを求める。神様にいつも立ち返るのです。その中で私たちは思い煩いや様々な問題から解放されていく。真理はあなたを自由にするのです。
今、某カルト団体の問題が大きく取り上げられていますが、その中に苦しむ彼らのために、同時に神様が「イスラエルの民全体」にモーセを通して命じられているように、私たちは彼らのために祈ることを忘れてはいけない。彼らもまた悩み、なにかにすがりつかなければ生きていけない、と縋り付いてしまったのが、お金の亡者だった。そしてその両親に苦しめられている。2世として苦しめられている人たちのためにも祈りましょう。あれこれ批判するのは簡単、でもその前に彼らが解放されること、本来立ち返るべき真の神様、主はそれでも愛されるから、イスラエルの民に語られた、また彼らに、私たちにもとりなしを訴えるのではないでしょうか。
話は戻して、それは実は↑の後半部にも繋がってきます。神様はモーセを通してさらに「あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」と語られますね。
「和解のいけにえをささげるときは」と仰るということは、神様も私達が神様に立ち返り和解、赦しを得て、神様の恵みを食べ、生きることを神様ご自身が願っている、だから立ち返ることを願っておられるのです。イスラエルの民、そして、私達は隣人(隣に住んでいる人、という意味ではなく、あなたの好きな人も嫌いな人も含めて)をとりなし、また助け合う、愛し合う事を何より願っておられるのです。汚れたものではなく、遅すぎる前に、私たちは神様から注がれる恵みに信頼し、これをいただこう。神様は聖なる食卓を広げてくださっているから。
それは貧しい人、本来預かるに値しない人のためにさえ注がれるのです。神様はあなたがもし恵みを受けたなら、今度はそれを分かち合うよう、訴えている。決して神様はこと欠かせないかたなのですから。神様があなたの主なのですから。何より、「あなたの主」なる神様は、決して落ち穂のままにされない。あなたを救い出される。聖なる愛、御心を持ってあなたを養ってくださる。地に沈み、どうしようもなくなることがないよう、神様は私達を神様の家族として迎え入れるため、その代価として御子イエス様のいのちを惜しまず、十字架にかけ、死なせてくださった。そしてよみがえられたことによって、私たちは罪から開放され、暗い墓の中から引き上げられ、神様の子として迎えいれられるのです。
神様はあなたの主となってくださったのです。なんと感謝なことでしょう。それはあなたをしばリつけるためではなく、あなたをいのちの内に、恵みの内に招かれている宣言なのです。だからこそ、私たちは神様に立ち返り、神様のくださる恵みを余すことなくいただこうではありませんか。これはいらない、と残すことなく、神様の導きに信頼し、委ね、その御心が表されることを切に願おう。そこに驚くべき実が結ばれるから。