ーThe・血ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。主が命じて仰せられたことは次のとおりである。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、主に持って来て、主への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。また、あなたは彼らに言わなければならない。イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。【あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。】イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕らえるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。【あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。】自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。』」

レビ記17章1-16節

 

血、血筋もそうですが、血そのものの働きってすごいですよね。何年も前から、血液を擬人化させた漫画でその働きをわかりやすくした物がかなり出ていますが、この血で酸素が運ばれたり、ウィルスと戦ったり、修復したり、色々。私は心臓弁膜症と言うか逆流をもっているので、一生懸命動いてくれているのをひしひしと感じます。また、輸血にも使われますよね。神様が私たちに血を与えてくださった。絶やすことなく、命の限り。何より、神様は私達を神様の血筋のものへと招かれている。それほどにあなたを今日も愛されていることを覚え、神様ご自身の愛に生かされ、歩ませていただこう。

 

さて、神様はさらに続けられます。↑は血についての教えですが、色々な点が出てきます。1番わかりやすいのは、血を食べてはいけない、ということ。これは生のままで食べるのは食中毒の恐れもある、という点からもわかりやすいでしょう。

 

さらに申し上げますと、↑に「血は命そのものです」と神様はモーセを通して語られます。この血にあって、私達は神様といのちある関係、血筋、家族へと迎え入れられるのです。古い血と交換され、御子イエス様の血潮が私達を生かしてくださるのです。↑に「肉のいのちは血にある」というフレーズが2度ほど出てきていますが、それほどに血はとても重要な役割を果たすのです。

 

生物学的には序論で見た働きだったり、輸血だったりの役割を持っていますね。しかし、本当の意味で私たちは神様と和解される時初めて生きる。そのために↑に「イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、主に持って来て、主への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる」とあるように、結局私たちは神様の御前に立ち返るには血を伴う、和解のいけにえにあって、私達は神様に近づかせていただけるのです。

 

「断たれる」と、神様は随分厳しいことをおっしゃられます。彼らはかつて淫行を伴う偶像崇拝を行ったりと、非常に問題のある罪を犯したことがありましたね。しかし、永遠に断ち切られるのではなく、永遠に神様の聖いいのちの血にあって私達を神様は生かしたいのです。断つのではなく、回復、繋がり、この血潮にあって、私達は生かされるのです。

 

血はいのちそのもの。血がなければ確かに生きていくことはできません。血液がある程度失われると命が失われます。神様は私達にその血を創造された時に与えてくださったのです。神様ご自身が私たちに必要なものを与えてくださったのです。しかし確かに生物的な血は私たちには与えられていますが、それもいつか時を迎えれば終わりの時が来るわけです。どんなに輸血しようが限界がある時が来るのです。私のおばも、白血病で天に召されたのですが、やはりどんなに治療しても限界がある。

 

しかし、本当に生かされるのは、命そのものの血、イエス様にあって私たちは生かされるのです。体中、いや私たちそのものの内に神様が働かれる。生物学的なこと以上に、神様は、あなたが断たれ、死ぬことがないように、御子イエス様は私たちの古い血、様々なことで傷ついた命、血、何より罪によって汚れてしまい、神様と断絶されるはずが、神様は御子イエス様を私達の罪の身代わりに十字架にかけられ、死なせてくださった。それによって、御子イエス様の血、御子イエス様ご自身が私達の内に溢れ流れるのです。私達がイエス様の十字架と復活による罪の赦し、救いを信じ受け入れる時。

 

血は命そのもの。あなたのために流された血によって、イエス様のいのちそのものによって、私たちは生かされるのです。この血を飲み、イエス様を覚え、他の自分のある意味で後となり骨となるような、精神的な血をのむのではなく、あなたを建て上げ、養い、満たし、生かす、このイエス様の流された血潮を私たちはいただこうではありませんか。命そのものなるイエス様があなたの内に働かれ、生物学的な働きを超えた多いなる御心、御業をなしてくださるのです。

 

私たちは今日、イエス様の割かれた身体であるパン、裂かれた血潮をいただこうではありませんか。イエス様はあなたを本当に意味で生かす、命となるべく、命まで惜しまず与えてくださった。イエス様は「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と仰られました。イエス様を通して父なる神様の栄光を仰ぎ見させていただける。その後計画に進ませていただける。私達はイエス様にあって神様の家族・血筋に招かれたことを感謝し、この命そのもののイエス様に生かされ、導かれ、歩もうではありませんか。