「『…アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の【贖いのふた】をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で【贖いのふた】の東側に振りかけ、また指で七たびその血を【贖いのふた】の前に振りかけなければならない。アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを【贖いのふた】の上と【贖いのふた】の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。…』」
レビ記16章11-22節
太陽は東から昇り、西に沈む、これはまあ誰もが知っていることですが(実際は地球が太陽の周りを回っているわけですが)、実際の太陽と地球の距離を考えれば、東西の距離って相当離れていますよね。もっというと太陽より先を見越せば無限ともとれます。私たちは本来神様の子として歩めるはずだったのが、神様から私たちが絶望的なほどに離れてしまったのですが、しかし、神様は私たちをご自身のもとに近づけるために御子イエス様を遣わして下さったのです。神の御子たるイエス様が人となってまで、ありえない距離を一瞬にして縮めて。私達はこの愛を受け、歩みたいものです。
さて、↑は年に一度の大贖罪の日の話の続きです。神様は聖所にアロンを招き入れるよう仰られたわけですが、アロンは民からの要望もありましたが、自分から金の子牛像を作り、これを拝ませ、また淫行を伴う祭りを行った、大罪をかつて犯しました。もう、神様から突き放されてもおかしくない中で、神様はアロンを大祭司から外すことなく、彼を聖所に招き入れるのです。しかも最も大事な年に一度の大贖罪の日に。
神様は共に住まわれ、共に進まれている、養われている。ただ、民の犯す罪はこの旅だけでも1度や2度ではありません、1年の間でも。私たちもですよね。気づかないだけで神様から離れる、神様を神様と思わず背いたり。なにかいいことをしたら神様に近づかせていただけるなら、おそらく逆にどんどん離されてしまうでしょうね。しかし、年に一度、彼らが、↑で「死ぬことがないため」とありますが、裏を返せば「生きるために」、神様はアロンを、私たちを招かれているのです。
アロン、そしてその子の罪の赦しのための生贄を捧げること、そして民の執り成しのためにまた生贄を捧げる、この事を通して神様の祝福が溢れ流れるように、その役割を与えられたわけです。東が西から遠く離れているように、その距離を一瞬にして縮める、その究極の日だったのです。それほどの恵みを受けてなお、彼ら、いや私たちもですが、神様のみ前に罪を犯してしまう。だからこそ、私たちには神様の恵みが、憐れみが必要なのです。
ある人は別に神様を信じなくても行きていけるよ、と言うかもしれませんが、そうでしょうか。私たちの生きている場所、全ては神様が創られた、人が作ったという人もいますが、ベースは神様が創られたものからです。神様は衣食住、すべてを備えて下さる。神様の国とその義とを第一とする時、全ては与えられるのです。私たちが望む以上の神様が思う私たちへの最高のものを、平安を与えられるのです。
↑を見るとただ儀式を行うだけのように見えますが、アロン自身、神様の恵みを求める、憐れみを求めなければ始まらない。私たちは神様をどれだけ求めているだろうか。儀式とか宗教とか、そういうレベルの話で神様を見ていないでしょうか。神様は無限の愛をもって驚くべきことをなされるのです。私たちが神様に立ち返り、御心を求めずにどうしてその恵みが広がるだろう。あなたの周りの神様を知らない人たちに。そういう意味で、↑の手順のように、まず、私たち自身が神様に心から悔い改め、立ち返る必要があります。
それにしても謎なのがアザゼルですが、大祭司アロンは会見の天幕の入り口に立たせていた二頭のやぎのためにくじを引き、一頭は「主のために」罪のいけにえとして定められほふられます。もう一頭は「アザゼルのために」と定められ、生きたままにされます。このアザゼルというのは、「消え失せる山羊」という意味があるそうです。この山羊にしてみたら、なぜ自分が?と思いたくなるでしょう。1頭は罪の生贄としてほふられてしまうのですから。そしてもう一頭は生きたままですがあらのに、決して戻ってこないように放ちます。
何だ、それで良いんだ、と言ったらそうではありません。生きたままの山羊・アザゼルの頭に両手を乗せ、背きの罪と、的外れを意味する罪を告白するのです。何もしないわけではない。アロンが身代わりに民たちのその罪をアザゼルの山羊に移し替えるわけですが、その前に当然罪の告白がなければその罪は残ったままになってしまう。そこに何が残るでしょう。
イエス様の12弟子の一人ヨハネは「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」と手紙に書きます。
私達はこの神様にあって生きるのです。聖められるのです、神様の言葉、命が留まり、生きるのです。本来、私たちは神様から離れ、もう神様から絶望的なほどに捨てられていてもおかしくなかった。しかし、アザゼルの1頭、屠られた山羊のように、なんの罪もないイエス様が天から下ってこられ、人として歩まれ、裏切られてもなお、私たちを愛し、十字架にかかられ、身代わりに死なれた。一瞬にしてありえない霊的・物理的距離を0にしてくださった。そして3日目によみがえられたことによって、荒野に放たれもう戻ってこれないアザゼルのように、私たちがこのイエス様の救いを受けいれるとき、すべての罪は赦され、神様の子として神様の内に留まり、恵みがあなたの内に、いやこれほどに愛されたイエス様があなたの内に留まってくださるのです。
ここに本当の意味での神様との和解、命ある関係の回復が起こるのです。この恵みをあなたに注ぐためにイエス様を身代わりのアザゼルにされたのです。私たちは神様の無限の愛の前にひれ伏し、この恵みの中にとどまり、神様との命の交流に溢れたうちを歩ませていただこうではありませんか。闇を照らし導かれるイエス様と共に世の終わりまで。