ー聖い食べ物?汚れた食べ物?問題はー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、とび、はやぶさの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、う、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。…』」

レビ記11章1-23節

 

私は苦手な食べ物が非常に多い。先日職場の同僚の方が持ってきてくださった漬物をおすそわけしますよ、と言われた際、食べられなかったり。まあ将来介護施設に入所することになったら、食べることに苦労しそうな予感がしますが。それはともかく、神様は聖いものとそうではないものを区別されます。差別ではないですよ?それは私達に神様の聖さにあって生きてほしいと願われている、その愛ゆえに。私たちは今日、神様に何を求めるだろうか。

 

さて、アロンの息子の事件があって、改めて神様は私達に聖い神様からの恵みに生きてほしい、と続けて聖さについて語られていくのですが、今回は食べていい食べ物と食べてはいけない食べ物。ひたすらそれらが羅列されていきますが、なんで?と思いたくなることばかりです。ただ、これは当時の時代の背景があり、食中毒やらそういったものから守る神様の配慮も一つにはあったと思われます。神様は唯あれを食べてはいけない、これを食べてはいけない、と支配するのではなく、私達自身を心配されていることも見えてきますね。

 

ちなみに、この習慣はイエス様が人となってお生まれになって、昇天後しばらく続いていました。12弟子、使徒のペテロでさえ。そんな中で、ペテロに神様は幻を見せられたのです。「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた」という。3回。ペテロはこれを屠って食べなさい、と言われても「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と応えるだけでした。

 

しかし、神様は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と答えられました。イエス様の十字架にあって、↑の食べ物の規定は成就され、聖くないとされるものも、この十字架にあって聖められる、異邦人であっても、みな同じイエス様の救いに招かれている、聖さに招かれているのです。だから、好き嫌いはともかく、この規定は衛生面を除いては問題ないでしょう。

 

では、なぜ神様はあえてこのように「区別」されたのか?これが不思議でしょうがない。だって神様が創られたものでしょう?問題なのは、聖さに満たされる、ここなんです。その生き方を選ぶ、ということです。ちなみにイエス様はこのようにも仰っています。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と。食べ物以前に、私達自身が聖められる、聖めていただく事が必要なのです。

 

神様は、食べ物の規定について、イスラエルの民が約束の地に入る直前にもう一度モーセを通して振り返ったときに、食べていいものについてこのように述べています。「ひづめが分かれ、完全に割れている生き物であり、かつ反芻する生物」、なかでも主に「牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊」が該当します。他に水中の生き物、昆虫などについて↑で触れられています。

 

まずひづめが分かれ、完全に破れている生き物であり、かつ反芻する生き物はどうして食べていいのか?まあここに挙げたものは食べられそうなものですけど。以前の分かち合いで説明したことがあるかもしれませんが、反芻する、という言葉の意味は「上る、登る」、割れているは「裂く」という意味があります。見えてきましたかね?これ、イエス様を現しているんです。イエス様は何度もエルサレムに行き、最後は十字架にまで登って、その身体を裂かれ、私達に永遠の命を与えられるのです。私たちがこれを受け取る時。十字架の前に悔い改め立ち返るとき。

 

鳥は、猛禽類が主にだめ、とされていますが、猛禽類は肉を血のついたまま食べるその姿が汚れている、とみなされているようです。一方、「鳩」は、ノアが箱舟から飛ばしたし、いけにえにも用いられていて、聖い鳥になります。私たちは私たちのために肉を裂かれ、血を流されてまで愛されたイエス様の与えてくださる一つ一つの恵みに生きたいものです。

 

昆虫、その中では、バプテスマのヨハネは「はね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい」ということからバッタ類を食べてましたね。はね足のある昆虫は、他と違って、空を飛ぶことによって、陸から離れることがあります。私たちは何に土台を置いているのか、地上のものにではなく、天にあるもの、神様のくださった御子イエス様による救い、その特権として与えられた神様の子として受ける恵みに生きたいものです。

 

今や私たちはこのイエス様の恵み、与えてくださる聖なるもの、愛、御心…そうしたものが注がれている。何を食べるか、私たちはこのイエス様の与えてくださったいのちにあって、一つ一つの恵みを感謝し、食させていただき、歩もうではありませんか。そこに神様の恵みがあふれるから。