ー不思議な事件2:ごめんなさいー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。『主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。それを聖なる所で食べなさい。それは、主への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。しかし、奉献物の胸と、奉納物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として主に向かって揺り動かさなければならない。これは主が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。』モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。『どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜ったのだ。その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。』そこでアロンはモーセに告げた。『ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげましたが、こういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。』モーセはこれを聞き、それでよいとした。」

レビ記10章12-20節

 

人は悲しみに暮れる時、自分が何をしたらいいのかわからなくなる。自分では如何ともし難い状況に途方に暮れてしまう。そんな時、友がいるのは本当に助かります。当時共に過ごしていた宣教師と、その友が、私の父が脳内出血で倒れた直後、このニュースを知った彼らは駆けつけ、祈りに来てくれました。闘病後、父が召天し、その葬儀の際に途方に暮れている私に悲しいときは泣いていいんだよ、と声をかけてくれた兄弟もいました。私の心をイエス様の方に向けさせてくれたのです。イエス様こそ本当の慰め主、私たちはどんなときにあってもイエス様の御顔を仰ぎ見よう。イエス様はあなたに答えてくださるから。

 

さて、↑は昨日の分かち合いの続きになりますが、ある時アロンの息子ナダブとアビフが神様側から火が出て生贄を焼かれたことを見て、自分たちにもできるのではないか、と考え異なった事を行った結果、彼らが神様の日によって焼き尽くされるというなぜ?と不思議に思える事件が起こりました。なぜ?ただ、神様から火が出たように、神様の恵みは神様から出るもの、彼らが自分ですごいでしょ、とみせるものではないのです。肝心なのは、私たちは神様から出る恵み、愛にあって生かされる、ごめんなさい、悔い改めの心が大切なのです。

 

以前、ある教会の信徒さんが、聖餐式の時、分けられたパンを食べない、ということがありました。どうしてか、と聴くと彼は「自分の父母を許せないでいる、罪を犯している自分には聖餐式に参加する資格などないと思ったのです」と。すると配っていた方は、彼のその心を汲み取り、一緒に悔い改めの祈りをし、「さあ、今度こそ一緒に参加しよう?」と彼を導いたという出来事が10年以上たった今でも忘れられません。神様から恵みが、愛が注がれている、神様が招いてくださっている、これに応答する、その恵みを改めて思わされました。

 

話は昨日の続きの↑に進めて、「モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。『主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。…』」といきなり進め・勧めます。いや、今アロンの子たちが2人が死んだ後いきなり、というのは、と思うのが人間の心情。まあ、時間軸が正確には把握できないのですが、9章で一度中断されていた儀式を続ける、という意味合いもあったのかもしれませんが。

 

結局↑の最後の方を見れば分かるのですが、彼らは食べなかったのですが、この「最も聖いなるもの」というのが鍵になってくるのです。どちらにせよ。アロンと息子たちの心情はごもっとも。モーセもこれを聴いて納得していますし。

 

ただ、だからこそ私たちはこの「最も聖なるもの」が必要なのです。それは全焼の生贄はもともと最も聖なるものだから言うまでもありませんが、「罪のためのいけにえ」と「穀物のささげ物」もまた最も聖なるものに当たります。まだレビ記の中にはいくつか「最も聖なるもの」が出てきますが、それはその時に。

 

ただ、このレビ記の最後の方で最も聖なるものは、売り買いすることができないもの、何にも代えがたいものであることを神様はモーセを通して教えています。何にも代えがたい、これを勧めているのです。先程の教会の方の話ではありませんが、いかんともしがたい時、まさに何にも代えがたい神様からの恵み、これが本当の意味で必要なのではないでしょうか。

 

確かに、アロンの言い分である、たとえ罪のためのいけにえを食べていても、失った息子の悲しみのゆえに、食べることはできなかった。たとえ食べたとしても、心のともなわない単なる儀式にしか過ぎなくなる、というのもわからないこともない。

 

しかし、だからこそ、最も聖なるものが必要なのではないか、と思う。先程挙げた教会の方も、彼のそれまでの苦しみを変えることができるのはまさに最も聖なるもの、イエス様の罪の赦しにほかならない、それを受け取ることによって、私たちは変えられていくのです。

 

実はこの出来事は↑でぷっつり切れて、また新しい教えに入っていくのですが、最後はアロンの「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげましたが、こういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」という質問に対して、モーセはこれを聞き、それでよいとした、と終わっています。たしかにそうだね、と終わっている。

 

良く分からない終わり方になっていますが、彼は全焼の生贄という、これもまた「最も聖なるもの」を捧げているのです。アロンは、この「最も聖なるもの」を捧げることによって神様にあとは委ねたのです。神様が教えてくださった、与えてくださった最高の恵みを受ける中に彼はすべてを委ねたのです。その中に神様が働かれる。ごめんなさい、悔い改め、この心が私たちを、何にも代えがたいものへと神様が作り変えてくださる。癒やしてくださる。あるべきあなたへと変えてくださるのです。それゆえに最も聖なるものを食べるように勧められたのです。

 

後の時代、ミカという預言者は「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と預言しました。

 

究極の「最も聖なるもの」はイエス様です。イエス様が私達の罪の身代わりに十字架にかかられ死なれた。そこで裂かれた体、流された血潮によって私たちは生かされる。私たちは命をかけてまであなたを取り戻されたイエス様の御前にへりくだり、形ではない、本当の意味で最も聖なるものをいただく、イエス様の前に悔い改め、命をいただこうではありませんか。そのイエス様の血肉によって私達は聖められ、「最も聖い所」に神様が導いてくださるから。神様に委ねともに歩む、その道を神様がまっすぐに整え、恵みを、御心を注いでくださるから。私たちは神様が与え、また備えてくださる一切の道を信頼し、今日も歩もうではありませんか。