「そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。『会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように主が命じられたとおりである。あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、主の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。』こうしてアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことを残らず行った。」
レビ記8章31-36節
私は理系な人間なので、結構数字にこだわるところがあったりします。が、今介護の仕事をしていると、理屈とか形式とかではなく、目の前の現状に合わせた、目の前の利用者さんを見ているかどうか、それが問われています。そして、見抜かれます。心を見ている人と見ていない人とが。いずれにしても、神様が求めているのは私達の心。ただ祈るように言われたから祈る、聖書を読むように言われたから読む、教会に行くように言われたから行く、ではなく、私たちは真の生ける神様に出会うため、恵みをいただくため、御前にす済出ようではありませんか。神様は立ち返る私達を喜んで受け入れてくださるから。
さて、↑はアロンとその子らの大祭司・祭司としての任職式の最後のところになります。ここまで、アロンとその子らを水で洗い、アロンに大祭司の装束を着せ、全ての用具に油を注ぎ、次にアロンの頭に油を注ぎます。さらにアロンの子らに装束を着せ、アロンとその子らは雄牛による罪のための生贄を捧げ、雄牛による全焼の生贄を捧げ、雄羊による任職の生贄を捧げ、奉納物を手のひらに乗せて、油と血を装束にかけるところまで見ました。
そして最後が↑、肉を煮、パンと共にこれを食べ、7日間幕屋の中にとどまるように、と命じられるわけですが、それが私たちとなんの関係があってこれを分かち合うの?と思われるかもしれません。ある人はこの箇所から完全数とされる7を持ち出して色々解説されるのですが、まあ間違いではないのですが、数字にばかり囚われていると肝心なことを見失ってしまう。それだけすればいいんでしょ?とか。そういえばイスラエルの結婚式は相当長期間行うようで、負担も相当大きいみたいですね。貧しい家庭はどうするんでしょう?と思いたくなるわけですが、そう、この辺りに私たちが考えなければならない点が見えてくるのです。
ちなみに、7という数字が聖なる数字、完全数(数学的に、ではなく)として聖書に登場するのは、有名所では天地創造を7日間で終わらせたこと、イスラエルの父祖アブラハムの祝福を継いだヤコブの葬儀が7日間、「過越」(救い)の後に七日間「種を入れないパン」を食べる、牛と羊の初子は七日間、母親のそばに置き、八日目に主にささげる、とか、先の話になりますが、「仮庵の祭り」が七日間にわたって行なわれ、その期間を「仮庵」で過ごす、ツァラアトに冒されたミリヤムは、七日間、宿営の外に締め出された(これは規定による)、ダニエルの「七十週の預言」、「七の七十倍」というより徹底した神のご計画の中に表されている神の恵みも、「七」という数字に関係してくるとか。最後はもうこじつけのようにも見えますが、そのこじつけで、イエス様の再臨(再び戻ってきて裁かれる日)はいついつ、と計算し、混乱を招く人達もいます。
一方で神様によって定められたこと、これはとても大事ですから、守る必要はありますね。しかし、ただ守れば良い、というわけではないのです。なぜ七日間なのかを考えると、もちろん神様が定められたから、それはそうなのですが、じゃあ1日ではだめなの?別に1週間じゃなくてもいいでしょう?と思いたくなる人もいるでしょう。私もこの辺の数字は悩まされました。なぜ7日間なのか。
7日間の次には8日目が始まります。新しい1週間です。そしてアロンは次の章で出てくるのですが早速大祭司としての勤めが始まります。そこで見えてくるのは、いかに神様との関係を大事にするか、その中に生きるか、ということです。神様との関係は我慢ではありません。天幕自体それほど大きいとは言えません。その中で7日間過ごし続ける、それがどれだけ大変なことでしょう。しかし、7日間も我慢しなければいけないのか、と考えるか、7日間も神様と密な時間を持てると考えるか、その間では大きな違いがあります。
この幕屋に入る前に「その」肉を煮て、「任職のかごにあるパンといっしょに食べ」てから天幕に入っていくわけですが、天幕の一番奥、至聖所には神様の栄光が待っています。神様が招いてくださるのです。そして、ただ大祭司に、祭司に任命されて終わりなのではなく、むしろここから始まっていくのです。与えられた食物を食べて、さあ出発、でいいじゃないですか。でもそうじゃないんです。この天幕の中で、それほどまでに養ってくださる神様が、さらに濃密な時間をあなたともってくださる、それを7日間「も」体験させて「いただける」のです。神様の栄光の内に。そして次の1週間、そして働きへと送り出されていく、派遣されていくのです。
それは、煮た肉とパンとで英気を養って出発、ということもできないこともないでしょう。よく腹が減っては戦はできぬ、と言いますが。でも肝心な心がついていかなければ意味がないですよね。精神論だけで戦えはしない。できるなら、どうして今の時代心が疲れ、やつれる人が多いのか、自明な話ですよね。
イエス様は荒野で40日の断食をし、サタンの誘惑にあった時、こんな事がありました。「試みる者(サタン)が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。』イエスは答えて言われた。『【人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる】と書いてある。』」という。
8月5日辺りからずっとレビ記を分かち合ってきていますが、文書を読むだけでは確かに儀式的に感じるかもしれない。私もレビ記を開くたびにいつも難解さを覚えました。神様は一体何を訴えているのだろう?と。それは解説書などを見れば多少は理解できてもストンと落ちてこない。しかし、神様は、確かに肉やパンで私たちを養うことはできる、でも、本当の私達の芯の部分、霊は決してそうしたものでは生かされない。神様は、肉とパンとともに、この期間にあって、彼らを、そして私たちを霊肉共に養われるのです。
神様はなぜ、天幕に招いてからその働きを始めるように導いたのか。それはまさに神様ご自身が住まわれるところに彼らを、また私たちを招いてくださっているのです。1週間、神様の一日はこの世の千日にまさる喜びがある、とイエス様の12弟子の一人だったペテロは晩年語ります。散々迫害を受け、苦しみ、それでも神様のくださる一日一日はこの世では測れないその恵みに招かれているのです。なにせイエス様の命をかけてまで救われた一日一日、それがどうして儀式的に感じられましょう。神様はあなたに喜びを注がれるのです。この十字架から溢れ流れる泉のように。
私たちは神様と形だけの関係に終わっていないだろうか。神様の招かれた栄光、喜びに満ち、8日目、次の1週間、また働きを私たちは初めたいものです。神様はあなたに永遠の命、分け前を与えてくださり、盾となり、あなたを守り、支え、養い、導いてくださる。これが終わったからもういい、ではなく、むしろこの喜びを、愛を分かち合うものでありたい。神様の御心が、栄光が輝くように祈るものでありたい。神様があなたを聖め、また復活の恵みとともにあなたを日々新しく作り変えてくださるから、私たちも日々イエス様に近づかせていただくものであろう。神様は喜んであなたを待っておられ、共に、世の終わりまで導いてくださるから。十字架にあって現された愛があなたを今日も覆っていることを覚え。