ー理屈をこねる前にすべきことー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。【あなたの罪は赦された】と言うのと、【起きて歩け】と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た』と言った。」

ルカによる福音書5章17-26節

 

誰かを助けるのにいちいち理由を探していたら遅れてしまう。あれやこれや自分の立場などを考え、熟慮した上で…それでは何処かの政治家と変わらない。もちろん自分自身の問題とぶつかった時も。まず、私達はイエス様のところに進み出よう。まず神様の国とその義とを第一に求めよう。それにイエス様は最高のベストを加えてくださるから。何を与えてください、よりもイエス様を求めよう。そこには救いが、癒やしがあるから。

 

さて、イエス様の公生涯のある日、いつものように人々に教えておられた。イエス様と言うと奇跡、というイメージがついて回りますが、もちろん必要な人に癒やしは行われますが、本質的には↑の箇所で見るように、私たちが悔い改めて救われ命を得ること、その中にはすべてがあるのです。奇跡を求めて、癒やされた、いいことがあった、後は好きに生きる、では本末転倒、結局神様の恵みをいっとき受けてあとは世に帰って。

 

話がそれましたが、そこにはパリサイ人と律法の教師たち(要するに宗教家と言ったらわかりやすいでしょうかね)もいました。多くの人はイエス様に会い、癒やしを求めていた。イエス様も、別に癒やされないわけではないんですよ?それはこの話からまた見えてくるのですが。パリサイ人や律法学者たちはイエス様が何者なのか、見極める、あら捜しをしようとしていた。いつも。なんともったいない。彼らも一応は聖書で約束されている救い主を待ち望んではいた、しかし目の前にいながら、自分たちの考えと合うか合わないかでジャッジしていたのです。

 

そんな中、ある人達が中風の友人を床のまま連れてくるのでした。相当重かったでしょう。というのも、中風というのは最近は聞き慣れないかもしれませんが、脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態をいいます。介護の経験がある方なら、そのような状態で床に寝かせたまま屋上に上がったり、どれだけ大変か。イエス様がなんとかしてくださる、という確信がなければとてもこのような重労働は難しい。ただ、残念ながらイエス様の身元に多くの人が集まっていたため、近づくことができず、その家の瓦を剥がし、イエス様のもとに下ろすのでした、まあ家主としてはなんてことをしてくれるんだ、と思いたくなるところですが。

 

そこでイエス様は彼を見て「友よ。あなたの罪は赦されました」と宣言されました。あれ?癒やしてくれないの?友たちは思ったかもしれません。私も彼らの立場ならそう思うかもしれません。ただ、彼らはイエス様なら、とこの機会を逃すまいと願い出たのです。普通に考えたらずっと、半身麻痺が癒やされるなんて想像も付きません。私の父も脳内出血で、全失語、半身不随、これは結局治ることなく6年近くの闘病の末、召天しましたが、現代医療でもそうなのですから、イエス様のもとに連れてきて何なる、と考えるかもしれない。しかし、彼らはイエス様を頼ってきたのです。

 

ただ、驚くべきことに最初に発せられたのは、彼の罪は許されました、と。もちろん↑を読めばこの後癒やされるわけですが、連れてきた当事者たちからしたらどうして?と思ったかもしれません。それに宗教家たちも「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」と反論するくらいですから。確かに罪を赦すことができるのは神様だけです。彼らの言っていることは正しい。

 

ただイエス様ご自身がおっしゃるように「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるため」まず、赦しの宣言をされた。彼らがイエス様のもとに立ち返ったこの事をイエス様は何よりも喜ばれたのです。じゃあこのことばは誰に向けられたのか。もちろん第一には宗教家たちですが、同時に私たちにも語られているのです。そこにいた集まっていた人達にも。

 

イエス様はただ人を癒やすために来られたのではない。もちろん癒やされますし、必要なことも語られる。悔い改めに導かれる。でも本質はイエス様の十字架と復活によって私達が罪赦されたものとなる、神様の子とされる、その救いの道を開きに来られたのです。神様であられるのにその権威を捨てられないとは考えず、しかもどんなに罵られ裏切られようとも、決して私たちを見捨てて点に帰るのではなく、最後まで十字架へ進みゆかれた。その救いの中に神様の驚くべき御業が現されるのです。

 

彼らが見て驚いたといいますが、癒やされたから?そこで終わってはいけない。唯自分の何かを癒やされて、そこで終わり、ではなくイエス様のもとに立ち帰るすべての人が立ち上がり、イエス様の開かれた新しい命の道を歩み行く事を願われておられるのです。イエス様は、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と仰られた。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます、と。私たちがあれを加えてください、これを加えてください、と思っている以上の神様の御心があなたの内に現される。↑の中風の人はその中で癒やされた。

 

私達はイエス様のくださった救いをいただき、この新しい命のうちを鮎ませていた蛇行ではありませんか。イエス様はあなたを立ち上がらせてくださり、新しい歩みへと、イエス様が一緒に進みゆかせてくださります。そこでイエス様が与えてくださる愛、御心、御力…これらに大いに期待し、歩ませていただこうではありませんか。主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができ、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、私たちはイエス様のくださる新しい力、喜びに溢れ、歩ませていただこうではありませんか。座り込んだ私たちを立ち上がらせるイエス様に。