「主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。そのうちから、おのおののささげ物の一つを取って、主への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる。和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。』」
レビ記7章11−21節
途切れることのない関係は本当に素晴らしいですよね。家族などが典型的な例(最近は離婚率が高く、例としてあげるのはむりがあるかもしれませんが)。神様は断ち切れになる関係ではなく、永遠の関係、いのちへと私たちを招かれる。ご自身が父母を通して作られた大切な私たちですから、断ち切られ滅びることを望まない。だから神様は私達に語り、命の道へといつも招かれる。神様は黙る神様ではない、語り続ける神様、この神様の御声に導かれ、歩もう。
さて、↑は以前に分かち合った「和解の生贄」の細則になります。いつも分かち合っていますが、これを語られているのは人間ではなく、「神様が」モーセを通して語っているのです。その上で神様が「和解」という言葉を持ち出してきたのは本当に感謝なことですね。これまでの全焼の生贄や罪過の生贄(償い=回復)などもありましたが、それ以上に、神様が和解へ私たちを招いてくださっている、なんと感謝なことだろう。神様は、私たちをそうして和解へと導かれているのです。さまよい歩いていた私たちを抱きしめ迎え入れてくださる、なんと感謝なことだろう。
ちなみに、祭司たちの分前は主にこの和解の生贄によって与えられていたようです。そう考えると、昨日の分かち合いでもそうでしたが、神様は与えてくださる神様であり、養われる神様、必要を満たしてくださる。私たちがなにもない、どうしたらいい?と思う中にあって神様はすべてを働かせて益としてくださる、導いてくださるのです。
どうしても私たちは喧嘩をすると、何処かぎこちなくなる、関係が完全には修復しないイメージがでてきますが、神様のくださる和解はそんなものではないのです。和解の生贄の、「和解」には、交わり・交流とか、平和、という意味があります。神様は、平和な交流を作り出してくださるのです。命あふれる関係を溢れさせてくださるのです。宗教・儀式とかそういう関係ではない、いのちといのちで結ばれた最高の関係、神様の家族へと招かれた。イエス様の十字架による身代わりの死と復活によって、隔たりの壁はもはや崩れさるのです。
使徒パウロはこのように手紙に書き残します。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において敵意を廃棄された方です」と。古いものは過ぎ去り、全ては新しくされる。罪の債務証書は完全に塗りつぶされ、罪によって不完全だったかん径、壁はこのイエス様の命がけの愛、その和解によって崩れさり、イエス様が私達の内に平和をもたらしてくださる。また、そこから平和、神様の恵みを溢れ流れさせてくださるのです。
私たちはあれして、これして、と神様に願いがち。もちろん御心にかなう願いは結構ですが、それは本当に和解された、平和な関係なのでしょうか。むしろ今や私達が生きるのではなく、私達の内に住みたもう復活のイエス様が生きて働かれる。それをどうして私達の何かで超える事ができるだろう。
↑の前半部で「主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。そのうちから、おのおののささげ物の一つを取って、主への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる」とありますね。
神様は私たちを感謝へと導かれる。感謝の心があふれるほどにその御心を表してくださる。私たちはあれをして、これをして、と忙しくなる前に、神様が備えてくださっているこの命のパン、Amazonでも買えない恵みのパン、イエス様ご自身をあなたに与えてくださるのです。神様はあなたにこれをしてくださります、と私は言えない。だって私は神様ではないから。でも神様は、あなたに、一人一人に計画を持っておられるのです。
パウロはまた手紙にこのように書き残しています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と。
私たちはまず世のなにかから取って試して、どうにもならなくなって神様に頼る。まあ神様に頼ることは間違いではないのですが。イエス様は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と仰ります。神様が、与えてくださる。私たちが想像する以上の驚くべき感謝に導かれることを。なにせ神様はあなたのために御子イエス様を身代わりに十字架にかけ、死なせた。その命のパン、御からだと、流された血潮によってこの平和、神様の国を成し遂げてくださる。これを期待せずして何に期待出来るでしょうか。
先程のイエス様の言葉には続きがあります。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と。マナはその日、その人に十分な量が与えられ、残す必要がなかったように、神様はこの和解の生贄の肉はその日の内に、残さず食べるようにおっしゃっています。その日その日、神様は十分な恵みを注いでくださる。明日でいいや、と先延ばしにするのではなく、私たちは神様が与えてくださる一つひとつの言葉、パンに養われ、歩もうではありませんか。神様は御子イエス様にあって、明日のための心配をする必要がないほどに十分な恵みをあなたに注がれる。私達はイエス様の前ににひざまずき、ただただ御心がなることを祈り求めよう。神様が壁をイエス様の十字架で砕かれたならもはや何者をもあなたを打ち砕くことはできないのだから。
