ーそれでも聖くしていただける愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。…』」

レビ記6章24−30節

 

私たちは様々な事に囲まれ生きているから、どうしても傷や悩み、時にはすねに傷を持つようなことだってある。知らないでしてしまったことも。しかし、それによって本来あるべき、いや神様があなたをイメージし創られた最高の姿を失ってはいけない。そのため、神様はあなたを、聖めてくださる、新しくしてくださる。私たちは踏みとどまるよりも、神様の御前に進み出、神様のくださる恵みに生かされ、歩もう。

 

さて、↑は4−5章前半で分かち合わせていただきました「罪のための生贄」の細則になります。これは4−5章前半でも分かち合いましたが、過失による問題です。ですから、その人の身分、経済状況によって捧げられるものは変わってきます。まあ身分が高ければ周りに与える影響も大きいので捧げるものも変わってくる、そして貧しい人は家鳩のようなものでもよかった。に、わざと犯した事、となると話は別です。別の箇所には、「主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う」ともあります。実はこのことでアロンの子らはこの少し後で大きな罪を犯すことになるのですが。

 

ただ、神様はあれをしたらすぐに断ち切る、これをしたらすぐに断ち切る、というならわざわざこんな細則を伝えることはしません。神様がなぜ語られるのか、それは以前も分かち合いましたが、私たちが断ち切られないためです。今の御言葉のように。そして、断ち切られることがないように、私たちがどうしても罪深いその罪を身代わりにイエス様は背負われ十字架にかかられ死なれたのです。ここに愛があるのです。まあそれでもなおのこと罪を犯すなら、聖霊様を侮る、わかっていてことさらに罪を重ねる場合は、そもそもイエス様を信じているのかな?という疑問に戻ってきてしまいます。まあ、これについて私が裁く権利などないでしょう。しかし、神様はそれでも語られる。

 

12弟子の一人ヨハネはこのように手紙に書き残します。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と。そう、それでもまだ私たちには悔い改めの道は残されている。神様は私たちを導きたい、だから語られる。縛り付けたいのではない、私たちを本来ある命のうちに生きてほしい、それこそが願い。そして、私たちを聖めたい、それが今回の箇所に込められています。

 

↑に話を戻して、神様は大祭司アロンとその子たちに告げるように命じます。昨日も分かち合いましたが、特にアロンは金の子牛像を造るという大罪を犯してしまった。もはやその彼が贖い手として用いられるのは本来はありえない。しかしそれでも彼らに語る、ということは彼らに悔い改めの道を示された。立ち返ってほしい、と。まあそれでも、アロンはこの先罪をまた犯しますし、息子たちも罪を犯し、結局彼らは約束の地に入る前に命を失うのですが。神様はいのちの道をいつも語られる、だからこそ私たちはこの神様のみ言葉に真剣に耳を傾けたいものです。神様は私たちをぞんざいに扱うのではなく、いのちを得てほしい、この思いをいつも自分の内に留めておきたいものです。

 

そしてこの「罪のための生贄」について、神様は「罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる」と語られます。

 

何がなんだかわからない、というくらい難しい話かもしれませんが、4章で分かち合ったことを思い出しますと、罪を犯した人は生贄の動物の頭に手を置いて、その人が犯した罪が動物に転嫁されます。それらの脂肪は祭壇の上で焼かれますが、その他の皮や肉、内臓や汚物などは、宿営の外の灰捨て場で焼かなけれることになっています。それは罪を負った人は、先程の民数記のように、宿営の中にさえ入れておくことはできないのです。これは誰であっても例外ではありません。

 

実は民数記に入るとモーセの姉ミリアムがある罪を犯した時に、ツァラアト(重い皮膚病)に犯され、定められた期間、宿営の外に出されていました。しかし、実は民は出発しないで、彼女が戻るのを待っていたのです。どうして?出エジプト記の分かち合いでみましたが、神様の臨在の雲がとどまっているうちは留まり、動けばすぐにでも出発していた、ということは神様がそこに留まり、彼女の帰りを待っていたのです。それは彼女を、聖なるもの、家族として迎え入れたい、悔い改め立ち返ってほしいという思いがあったからではないでしょうか。この辺の詳しい話は次の民数記の中で見ることになると思いますが。

 

話は戻し、本来罪あるものが罪を身代わりに背負うことはできません。それはそうですよね?だから本来祭司がこれを食べる、などありえない話なのです。しかし、一度捨て置かれた汚れた部分を、祭司がその肉の一部を食べる事になっていたのは、ある意味では肩代わり。そうして聖なるものとして受け入れられる。聖なるものとされるのです。しかしそれは一時的なことでしかないのです。

 

それゆえ、大祭司による本物の贖いが必要でした。それが↑の一番最後の部分、「しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない」ということです。本物の大祭司イエス様が私達の汚れも痛みも、悲しみも、何より罪を全部取り除くため、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし、このイエス様の咲かれた体・肉、流された血潮によって、これを受け取る人はすべて癒やされる、聖められ、神様の子とされ、本当の聖い場所、神様の家族・子として迎え入れられるのです。

 

私達の思い煩い、痛み、罪、全てを剥ぎ取り、罪のないイエス様がこれらを身代わりに背負われ捨て置かれる。しかし3日目によみがえられ、私達をその捨て置き場から、引っ張り上げ、神様の聖なる家族に招き入れられ、新しくされる、この恵みはいかんばかりか。

 

私たちは神様の日々注がれている恵みを恵みと思わず、神様から離れた、聖い場所から離れ、疲れ、傷つき、倒れ、それでも神様はあなたを待っておられる。招き入れてくださる。私たちが探していたものはそこにある。神様のところに。このような私達をイエス様は受け入れてくださる。その体の一部してくださり、恵みを私達の内に溢れさせてくださる。イエス様はいのちを持って私たちに愛を、恵みを、祝福を、御心を豊かに働かせてくださり、その御心にあって私たちをイエス様の似姿へと変えていってくださる。神様の望みはあなたが切り離されることではなく、あなたが命を得ること。あなたに最高の御心を備え。あなたはこの愛に今日、どう応答しますか。