ー繋がらせていただける愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。』」

レビ記6章14−18節

 

人は見えないものを恐れ、また見えない未来に対して不安を抱く。いったいこれからどうなるんだろう?とか、失業後とか。これは本当によくわかります。しかし、神様は確かに目に見えない(御子イエス様は人の形を取って生まれてきてくださりましたし、時々旧約聖書時代、紀元前も現れはしましたが)、しかし、あなたと顔と顔を合わせ、あなたを養い導かれる。私達は起こること、起こったこと、に目を向けるのではなく、あなたの一日一日を、一瞬一瞬を導かれ養われる神様に目を向け、歩もうではありませんか。

 

さて、ここまで5つの種類の生贄について見てきましたが、今度はその詳細を神様は↑で語られます。今回は穀物の捧げ物についてですね。2章で、この穀物の捧げ物について分かち合わせていただきましたが、穀物の捧げ物は血によらない唯一の捧げ物であり、贈り物をも意味する、捧げる、そういう意味合いを持っていることを見ました。実はどうもこの穀物の捧げ物を捧げる時は、他の血を伴う生贄とともに捧げられていたようです。罪の赦しを受けた〜自身を捧げていく、という意味で、血を伴う捧げ物はどうも必要だったようです。イエス様は十字架でその身体を裂かれ、血を流された、それによって与えられた最大の贈り物。私たちはこの十字架の死と復活にあって生かされていることを忘れないでいたいものです。

 

そこまで愛されている神様(この段階では十字架には至っていませんが、その計画ははじめの人、アダムとエヴァが罪を初めて犯した時から決まっていた)、この神様がこの穀物の捧げ物の中に最初から力強いメッセージを私たちに語ります。「アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい」と。

 

神様はモーセを通して「主の前」、神様の前で行うように、というのです。これはただ単なる儀式ではない、ということを思わされますね。神様が目の前にご臨在くださっている。何処かの神社仏閣で隠れている(まあそもそも存在しないのですが)対象に、希望的観測で願い事をするわけでもなく、確かに生きておられ、なお私たちを愛される神様が私達の目の前にご臨在くださっている、なんと感謝なことでしょう。幸いなことでしょう。

 

この神様が私たちと向き合われ、私たちが神様を求める中にあって、御心を求める中にあって、豊かに働かれるのです。2章でも見ましたが、塩というのは当時大変貴重なものでした。以前NHKの朝ドラで塩を作るシーンがありましたが、相当大変だったのを覚えているでしょう。戦後の時代でさえそうであれば、なおのこと。神様は最上のものを私達に添えてくださる、働かせてくださるのです。希望的観測ではない現実、精神的満足を得た、というものではない、神様は添えるようにおっしゃられた、この関係の中で。

 

とするなら、神様はなおのこと最善の、希望的観測ではない御心をあなたのうちに成してくださるのです。更に乳香は黄金と同等の価値が当時あったことを考えるなら、王の王なるイエス様の冠、私たちは王にはなれませんが、その恵みに私たちを招かれる、だからこそ、この穀物の捧げ物について改めて神様は言及されているんです。神様はただ私たちを縛り付けるためではない、神様は私たちに命を得てほしい、この恵みを得てほしい、本来神様が私達に備えておられる最高の恵みを注ぎたい、この神様の思いを私達はどう受け取っているだろうか。神様はすでに私達の必要をご存知で用意されている。私たち「主の前」に招かれている喜びを忘れないでいたいものです。

 

更に良く見ますと、「穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい」と語られています。乳香がなだめの香りを引き出されるわけですが、そういう意味で、私達の祈りの香り、これは主の前に聞かれています。私たちは恐れる必要はありません。神様は聞いておられる。どうせ祈ったって無駄、などと思う必要はないのです。なにせ神様がこのように定められ、またイエス様も祈ることを赦され、また教えられたのです。私達は神様の御心がなることを主の御前前に進み出、願い求めようではありませんか。神様にあれやって、これやって、ではなく、黄金にも匹敵する神様の御心を求め。神様はあなたの祈りを聞かれているから。

 

こうして捧げられた穀物の捧げ物は全部焼き尽くすわけではなく、一部は祭司たちが食べることができるようにされています。私たちも、イエス様のこの与えてくださる恵みの一旦をも味わわせていただけるのです。それを食させていただくことによって、私たちはイエス様のからだを分け与えられ、その恵みに預からせていただける。イエス様が主の祈りというものを教えられた時、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることを勧められています。神様は、その祈りを教えてくださったということは、まさにその祈りを成し遂げてくださるのです。神様の御心が、私達のうちに流れ、一体となり、溢れ流れていく。こんな事を祈ったって何になるんだ、こんな状況担って、祈って何になる?ではないのです。私たちがなすのではない、その祈りにあって、神様がこれを成し遂げてくださるのです。

 

私たちは自分が強いと思い、神様に頼ることは弱者のすることだ、と考えがちです。クリスチャンでもです。まず自分で頑張って頑張って、どうしてもだめなときは神様に助けてもらおう、と。そうじゃないのです。祈ることは最後の手段ではないのです。まず第一にすること。イエス様の受胎を天使に告げられた時、マリヤはお心通り、この身になるように、と祈りました。神様が、イエス様を十字架にかけてまで取り戻そうとされた、その愛の中で、あなたのうちに成したいご計画がある。それはまさにその命という捧げ物をもって私達の罪の赦しをいただけるように、そのイエス様にあって与えられる神様のご計画、御心に私たちはどれだけ期待しているでしょう。

 

イエス様は十字架にかかられる前、最後の晩餐の中でこのように語られました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と。ご自身の命をかけられてまで愛されるイエス様があなたのうちに留まってくださる、これほど感謝なことはありませんね。しかしただ受け取って終わりではなく、この命の交流の中に、顔と顔を向き合い、私たちもイエス様の与えてくださった新しい命にとどまり歩ませていただこうではありませんか。

 

イエス様は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と仰られます。イエス様の命がけの愛にあって与えられる今日という日、明日という日、十分に最高の贈り物とともに備えてくださっている。私たちはある時は捧げ、別な方を向き、ある時は向く、ではなく、いつも神様の御心に養われ歩もうではありませんか。最善の、十分すぎるほどの恵みに生かされて。