ーどうせこんな私なんか、を変えて下さるのはー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。彼はまた、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばし、巧みなわざで青色、紫色、緋色の撚り糸に撚り込み、亜麻布に織り込むために、これを切って糸とした。彼らは、エポデにつける肩当てを作った。それぞれ、エポデの両端につけられた。エポデの上で結ぶあや織りの帯は、エポデと同じ材料で、主がモーセに命じられたとおり、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で、エポデと同様に作った。彼らは、しまめのうを、金のわくにはめ込み、これに印を彫るようにして、イスラエルの子らの名を彫った。彼らはそれをエポデの肩当てにつけ、主がモーセに命じられたとおりに、イスラエルの子らの記念の石とした。彼はまた、胸当てを巧みな細工で、エポデの細工と同じように、金色や青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で作った。四角形で二重にし、その胸当てを作った。長さ一あたり、幅一あたりで、二重であった。それに、四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくに入れてはめ込んだ。これらの宝石は、イスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい、十二個で、十二の部族のために印の彫り物が、一つの名につき一つずつあった。ついで、編んで撚った純金の鎖を、胸当ての上に作った。彼らは金のわく二個と金の環を二個作り、二個の環を胸当ての両端につけた。そして彼らは、二筋の金のひもを胸当ての両端の二個の環につけた。その二筋のひもの他の端を、先の二つのわくにつけ、エポデの肩当てに外側に向くようにつけた。ほかに、二個の金の環を作り、これを胸当ての両端、すなわち、エポデの前に来る胸当ての内側の縁につけた。ほかに、二個の金の環を作り、エポデの二つの肩当ての下端の外側に、すなわち、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に接した面の上につけた。胸当ては青ひもで、その環のところをエポデの環に結びつけ、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデからずり落ちないようにした。主がモーセに命じられたとおりである。」

出エジプト記39章1-21節

 

世間を見回してみますと、「どうせ私なんか」という言葉を耳にします。本当に、自意識が低い場合、そしてどうせ私なんか、と口だけ言っていて自分を目立たせ、自分でスポットライトを当てる人。でも、後者の場合は特に問題で、自分で当てているうちはいい、でも周りはいい気はしないし、その輝きが失われたら?本来私たちを輝かせるのは、誰なのか?神様です。神様があなたを輝かせる。それは「どうせ私なんか」を最高に輝かせる神様の大いなる御業。私達は神様に自身を委ね、神様にあって生かされている喜びに生きようではありませんか。

 

さて、幕屋の作成が終え、今度は幕屋で奉仕することになる大祭司、祭司の装束の作成に入ります。作成の章から何度も分かち合ってきましたが、彼らはモーセがシナイ山で神様から幕屋の話やこれからのことを分かち合っていた時に、待ちきれなくなった民は偽の髪を作り、淫行を伴うまつりを行っていた。その罪故にもう神様に見捨てられてもおかしくなかった。しかし神様はそれでもモーセの執り成しの祈りと彼らの悔い改めによって、再び彼らと神様は進むことを赦されたのでした。

 

シナイ山で示された配置、宝石の種類、名前、全部↑と同じです。神様は決して彼らは罪を犯したから、もうこんな宝石などもったいない、などとはされなかった。私たちはどうしてもいろんな問題でくすんだり、傷ついたりする。神様を悲しませたりする。でも、それを輝かせるのは人の行いの前に、神様なのです。神様が修復してくださり、輝かせてくださる。そして神様の形に変えることを望むか、それでも自分の好きなように形作り、結局痛み崩れていくか…それは最後私たちの神様への応答となるわけですね。

 

その大祭司の装束・エポデですが、まず大祭司は祭司と民、すべての人が1年に犯した罪を贖う、ということをされた。以前も分かち合いましたが、イスラエルの民だけで横浜市の人口分くらい当時いましたから、1年に一度だけ1人が罪を犯す、わけでもないでしょうから、相当大変だったでしょうね。そう考えるとイエス様は全人類の罪を贖われた、全人類の名前を心に刻み、私た地の罪の贖いの生贄となられた、とどれだけイエス様が私たちを愛してくださっているのか、思わされますよね。

 

しかしただ定型的に十字架にかかる、というわけではなく、そこに込められた愛が、回復する姿が、このエポデに込められていたのです。エポデの構造は、袖なしのエプロンのようなものをイメージしたらわかりやすいと思います。つまり、前と後ろを覆う形になっています。神様は私たちの知らない、見えない中にあっても守り導かれるのです。

 

そのエポデには、先程見た宝石だけではなく、かなり細かく作られています。そこには神様の天的な性質が込められていました。まず天の宝、イエス様が人となってこられるという青が使われていました。人間の宝ではない、尽きることのないい宝。そして、王の性質、豊かさ、正しいご統治を表す紫、支配、と言うよりも私たちを正しく治め、養ってくださる王。そして、イエス様の十字架の血潮に見る、罪の赦しを表す緋色、そして、罪から解放され、神様との関係を回復させる白が使わされました。罪を表す色ではない、それを神様は私たちの内に神様の愛が刻まれるのです。

 

さらに、このエポデを頭からかぶるようにして、両肩に肩当て、パッドのようなものが付けられます。それは縞瑪瑙という宝石を使われました。痛くないのか?と思いたくなるところですが、その痛みを、私達の痛みを神様が背負ってくださる、という部分も見えてきますね。

 

それが先程のエポデの上に結ばれます。その石にはヤコブの12人の名前、部族の名前が刻まれます。しかも父の妾と寝たルベンの名前も刻まれる。特別に良い事をした人だけではなく、凄い残虐な復讐をしたシメオンとレビなども刻まれています。エジプトとイスラエルの民を大飢饉から守ったヨセフや、弟のためにとりなしたヨセフの名前ならわかりますが。

 

神様はある特別な人だけではなく、神様の願いとしては、神様はすべての人のことを覚え、その見てを伸ばされている。神様のみ手が短いからすく得ないのではない、神様はその御手を伸ばし続け、輝かせたい、とむねにあなたの事を刻まれている。しかも、それぞれにそれぞれの宝石をあてがったように、あなたにはあなたへの思いが、込められているのです。しかもずり落ちないように、神様はあなたを支えようと、あなたを支えようとしてくださっているのです。

 

もうこんな私なんか、と思う必要は亜りません。神様は今日もあなたを覚えておられる。あなたがずり落ち、苦しみ、なにか縛り付けられることがないようしっかり神様の恵みの中、生きられるよう、私達の罪も一切も御子イエス様に背負わせ、十字架にかけて死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって私たちをくすんだ、砕けた、宝石を輝かせてくださる。神様があなたを覚え、輝かせてくださる。

 

神様は、もう一度申し上げますが、あなたがずり落ちないようにしっかり結び付けられている。ある時だけ付けているのではない、今日も明日も、これからも、世の終わりまであなたを覚え、養い、導かれる。私たちは目に見えないことに不安を覚えますが、背後も含め、全てにおいてあなたを覚えてくださっている。だから私たちも、この神様からずり落ちないよう、イエス様にあってしっかり繋がらせていただこうではありませんか。その中に神様が輝かしい宝石、実を結ばせてくださり、私たちを生きたものとしてくださるから。