ー聖なるアート3:聖なる純粋な香りー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼は、アカシヤ材で香の壇を作った。長さは一キュビト、幅は一キュビトの四角形で、高さは二キュビト。これの一部として角をつけた。そして、上面と回りの側面と角を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。その壇のために、その飾り縁の下の両わきに、相対する両側に二つの金環を作った。それは、壇をかつぐ棒を通す所である。その棒をアカシヤ材で作り、それに金をかぶせた。彼はまた、調合法にしたがい、聖なるそそぎの油と純粋なかおりの高い香を作った。」

出エジプト記37章25-29節

 

いつするの?今でしょ、というフレーズを使う某予備校講師がいますが、わからないこともないのですが、今、だけではなくそれを継続しなければあまり意味がない。三日坊主になってもしかたがない。神様はいつでも祈りを効かれる、私たちが神様を求めるのを待っておられる。だから私達はいつも祈りの香を炊こうではありませんか。難しい祈りなんかいらない。純粋なあなたの思いを主の前に祈ろうではありませんか。

 

さて、ベツァルエルは今度はアカシヤ材で更に香の壇をつくります。長さ、幅はおおよそ45cm、高さは90cm、これ、誰でも届く高さですよね。この時代は祭司が祈りの香を炊いていたのですが、誰しもが、アカシヤ材、神様が憩いの場に招かれている。何という幸いでしょう。

 

また、「これの一部として角をつけた。そして、上面と回りの側面と角を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。その壇のために、その飾り縁の下の両わきに、相対する両側に二つの金環を作った。それは、壇をかつぐ棒を通す所である。その棒をアカシヤ材で作り、それに金をかぶせ」ました。形がピンとこない方は、表示している画像を参考にしてくだされば。

 

ただ、形だけでは意味がない。香壇は祈りを捧げる場所になります。裏を返すと、当然形だけの祈りなど意味がないし、自分を誇る、自分の香りを高めるようなそんな祈りではなく、天に、神様に向けてその香が立ち昇っていくように、私たちは神様に向け、祈るのです。形だけの祈り、自分がいかに優れているかをみんなに聞こえるように、皆に見える場所で祈っている宗教家をイエス様は叱責され、むしろ、罪人であるのに、祈る資格はない、とひっそり胸を打ちたたきながらも自分の祈りを捧げた、罪深い自分を憐れんで下さい、と祈った取税人の祈りをむしろイエス様は喜ばれました。罪人のどこが純粋?と思うかもしれませんが、神様に純粋に自分の心を向ける、祈りを捧げる、そのことこそ神様は喜ばれるのではないでしょうか。

 

イエス様は主の祈り、どのように祈ったらいいのか尋ねる弟子たちに祈りについて教えられたこともありました。つまり、この祭壇を通して祈りが捧げられたように、イエス様という生贄、私たちの罪の身代わりとなられ十字架にかかられたイエス様を通して祈る祈りは、確かに聴かれるのです。まあ、誓ったことは果たさなければいけない、と余計な誓いを建てたばかりに苦しんだ親子もいたのですが。それは神様を試みた、そのために起こってしまったことであり、そんな誓いをしなくても神様は助けてくださったのに。彼は疑いという混ぜ者の油を捧げていた。

 

話はそれましたが、今分かち合ったことはこの祭壇の形状にとても関係があるのです。の香壇には4隅の角につのをつけ、それに、幕屋の入り口で捧げられた罪の贖いのための生贄の血を塗る必要がありました。そう、罪があるままではだめ、という事。厳しいですね。

 

でもそれでは祈ることができる人はいったいだれがいるんだ?という話になってきてしまいますが、そもそも罪は、なにか犯罪とかそういうことだけをさすわけではなく、神様から離れること、神様を神様としないこと、そうした事を一切を含みます。そうなってくると、先程の宗教家がなぜ問題だったのか、見えてきますね。彼は自分はいかに素晴らしいか、と人々の注目を集め、あたかも神であるかのように振る舞った、そこに問題があったのです。一方でひっそりとした場所で胸を打ちたたきながら、それでも神様の憐れみを求め、角を掴むがごとく、神様をより頼んだ。そこに大きな違いがあったのです。

 

さらに、この角には純金(聖い、純粋ななどの意)がかぶせられます。あれこれ疑いの心を持って近づくのではなく、神様を求めるその思いに聖い神様の御心が働かれ応えられるのです。

 

それだけではない。なぜ純金を被せる必要があったのか?「作られた角」は完全なものではなかったからです。確かに角には力を意味しますが、そこに罪の贖いのための生贄の血を塗る必要があった。この角は不完全、1度きりしか有効ではない生贄の血、しかし、神様はその不完全な角を、聖い純金たるイエス様にあって覆ってくださったのです。御子イエス様がすべての人の罪の贖いとして十字架上で死なれ流された血潮、最も聖く、しかしある意味で残酷な、この血が流され、神様の涙と共に流された生贄の血、御子イエス様の血、これが覆い被さる事によって、このイエス様の救い、命をいただく全ての人を新しくし、聖めていただけるのです。本当の意味での完全な角と変えられたのです。

 

しかも、「その壇のために、その飾り縁の下の両わきに、相対する両側に二つの金環を作」り、「それは、壇をかつぐ棒を通す所」となるのです。私たちは今こそ祈るべきでしょう、とある瞬間祈る。でも、別な時は忘れる。自分のお心を通そうとするだけで、イエス様の御心をいつも求めるわけではない。それは私たちは不完全ですから仕方ないといえば仕方ない。しかし、あなたのために命を惜しまず与えるほどのイエス様が一緒にこの担ぎ棒、くびきを負ってくださり、一緒に進まれる、一緒にあなたの生涯を、世の終わりまで、あなたと共に歩んで下さるのです。

 

1世紀の伝道者パウロはこのように手紙に書き残しました。彼は何度も迫害を受け、殺されそうになり(まあ最終的に殉教するのですが)、それでも希望を失わず、この完全な角、筆というよりもイエス様の救いにある命を握りしめ、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです御霊を消してはなりません」と書き残すのです。あるときだけではない、いつも祈るように。その祈りの香を炊くように、と。どんな時にあっても神様が喜ばせて下さる、感謝させて下さる状況に導いて下さる、だから祈ろう、どんなときも。良いんです、祈って。特別なときだけじゃない、いつもそう導いて下さるイエス様に祈ろうではありませんか。この香壇を忘れていっては、置いていってはいけない。御霊様は消えない、逆に私たちはこの御霊様の働きを存分に求めるべきではないでしょうか。

 

ベツァルエルは、作業過程においてすぐに作った。あとではない、今、どんなときでも、この幕屋作成、旅路、どこにおいても神様が必要、いらない日はないんだ、と取り掛かりました。私たちはこのイエス様の命にあって開かれた祈りの窓、天の窓を侮ってはいないだろうか?宗教行為的なものとしてみていないだろうか。試みるのではなく、疑いの心ではなく、神様が定められた調合方、神様が調合して下さる聖なる香り、香油、これを私たちの内にしっかりと持っていよう。

 

イエス様の弟ヤコブはその手紙にこのように書き記します。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります」と。これは祈ってもしょうがない、ではない、イエス様の十字架によって開かれた神様に繋がるこの道は私たちの想像を超える神様の大きな力が働かれるのです。こんなときに祈ってもしょうがない、ではなく、いつもどんな時にも神様の偉大な力、聖なる御心を求め、祈り求め続けようではありませんか。