ー角が生えるの?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」

出エジプト記34章28-35節

 

ミケランジェロ、という彫刻家は有名ですね。彼はモーセの像を作ったことがあるのですが、彼のその作品にはなぜかモーセの頭に角が生えている。神様を信じている人は角が生えるのか?そんなわけはないですよね。その謎は本文の方で少し触れるとして、角が生えるかわりに私たちは光を放つものとされます。希望の光を。神様が放させて下さる。世の光として。あなたは神様に生かされている今、どう歩むだろうか。

 

さて、自分の思う時に思うとおりにしない神など神ではない、と自分の思うとおりになる偶像を造らせ、拝み、みだらな行為にまでふけったイスラエルの民。モーセのとりなしにより、悔い改めた民はいのちを受けるのでした。そうして神様はまだ何もよい事をしたわけでも、何年間前項積んだわけでもないイスラエルの民を、それでも愛そう、と再契約、祝福の道に招かれました。そして石の板に十戒を刻み、そして下山。そんな中神様と語らっていたモーセに驚きの出来事が起こるのでした。↑はそこから始まります。

 

彼はどんな思いでこの十戒を刻んだのでしょう。それはおそらく、これまで神様に導かれてきた一日一日のこと、また金の子牛事件があっても憐れまれたその恵みを思い起こし感謝し、書き記したのではないでしょうか。「その時」、彼の顔が光り輝いた、というのです。

 

そういえば、イエス様もある時山で顔が光り輝いた、という出来事がありますね(変貌山と言われていますが)。すごい出来事ですね。イエス様と同じ体験をモーセはしたわけです。でもだからといって思うところは、顔が光り輝いた、ということはすごい、でもだからといってなんだろうと思うわけです。私たちと何の関係があるのだろう、と。

 

そう、実は肝心なのは、誰がモーセの顔を輝かせ、その時モーセ、また私たちの内に起こっているのか、また周りの人に起こるのか、そのあたりが重要なのです。ちなみにミケランジェロはこの箇所の像を造る際、神様の光をどうやっても表すことができず、諦め、光と同じ言葉の権威、光を意味する「角」をつけたそうです。角には何かを拡散させる、という意味があるそうですからあながち間違いでもないのですが。

 

ではそもそも何があって彼の顔が光り輝いたのか。モーセは40日40夜、神様と共にいた、そこに大きな要因があると思います。このような出来事が起こったのは↑を見る限りこの時だけではないので、彼は神様と会話をし、神様の御心を求め、民のためにとりなしの祈りをしていた、その中で神様の喜びに満たされたのです。こんな罪人を神様は見捨てなかった、あわれんでくださった。その喜びに満たされたのです。

 

40日40夜作業をし、光り輝いて見えるなんてことは普通はありえない。普通なら眠たそうにしている、疲れ憔悴した顔に見えるはず、しかし光り輝いていた。そう、神様のご臨在に触れ、まず神様にある喜びに彼の内側が満ち溢れさせられたのです。もちろん物理的に顔が輝いていたのは事実でしょう。しかしそれ以上に、顔はその人の存在自体を表す言葉でもあるのです。ですから神様が彼の内面を喜びで満たしてくださった、それが彼の顔に現れた、外側に現されたのです。希望が見出だせない心を神様が変えて下さる、そして喜びが外に溢れ出てくるのです。悲しみの覆いが取り除かれて喜びが満ち溢れたのです。私にはどうにもできない思いを神様のところに持っていった中で彼は変えられたのです。私たちでは自由にできないものも、神様が自由にして下さる、何と感謝なことでしょう。神様と語り合う、向き合う中で、私たちを神様が光り輝かせてくださる、そのことを求めていたいものです。

 

話を進め、この彼の顔を見るとアロンや民は恐れて彼に近づけなかったようです。恐れるという反応は、神様に触れられてこそ起こることなのです。恐れるというのは、罪の奴隷としての恐れ、人への恐れ、そして大事なもう一つ、私たちを造られたものとして持つべき畏怖の念としての恐れ。

 

畏怖というのは、ある意味で神様は私の生涯の主です、救い主です、私を憩いのほとり、天の御国にまで導かれる、私のうちに住んで下さる、人生の主です、と認め従う、といってもいいでしょう。ただ怯えるということではなく、神様が私の主です、と認め従うことが恐れることなのです。その時何があるのか、そこに恵みがあり、幸せがある、いや、神様がそうしてくださるのです。

 

このように神様の栄光が現されるとき、私達の内側の変容、私達が神様を恐れる、神様こそ私の主と認め従う時に働く大きな力だけではなく、私たちの周りの人たちを神様のもとに引き寄せさせて下さるのです、恵みの中に。神様が。

 

「モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た」とありますが、戻って来るという言葉は立ち帰る、とか悔い改めるという意味があります。金の子牛事件から悔い改め立ち返ったのです。もちろん民はこの後もまた罪を犯していくのですが。確かに私たちではできないこともありますが、神様の御心を求め、従う中で、神様は変化をもたらしてくださるのです。

 

ちなみにモーセが覆った幕は幕屋の幕と同じです。本来神様から恵みを受けられないような私たちが受けられるよう、神様がこの幕を外された。イエス様の十字架によって、幕屋の膜が天から裂け、神様との道が開かれたように。これこそ神様の愛なのです。本来私たちだって神様からの恵みを受けられるはずがない、しかし神様はそれでも私たちを愛し、その道を、イエス様の命を・十字架を持って開かれたのです。そのように神様は驚くべき変化を、私たちは幕の先に見えていなかった神様の驚くべきご計画、栄光を見る、私たちにはできない、聖霊様の働きを私たちは見る日が来るのです。

 

神様が一昨日の箇所で「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行おう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」と語られたように。

 

モーセがいつもある意味で「角」があったわけではありませんが、彼も完璧ではないですし、私たちもです。しかし、聖霊様が働かれる時、角・権威と力が働かせて下さる。そこに恵みがあり、自由がある。命がある。驚くべき御業が溢れ流れる。だからこそ私たちはいつもこの神様に日々触れられ、聖霊様の働きによって、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くことを祈りつつ、期待仕様ではありませんか。神様の刻んでくださる一つ一つの恵みに感謝し、刻み刻まれ。