「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕に入るまで、彼を見守った。モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。さて、モーセは主に申し上げた。『ご覧ください。あなたは私に、【この民を連れて上れ】と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、【わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている】と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。』すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』それでモーセは申し上げた。『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。』主はモーセに仰せられた。『あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。』すると、モーセは言った。『どうか、あなたの栄光を私に見せてください。』主は仰せられた。『わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また主は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」
出エジプト記33章7-23節
友、友ってなんでしょうね。何年か前は空気を読む、という概念が強く、本当の意味で友、と言えるのかな?という状況がありました。空気を読んで相手に合わせる、自分を隠す、それでは本当に親しい関係とは言えない。お互いを助け合い、時には相手を思って言うべきことを言える、そんなディープな関係が理想的ですね。イエス様は私たちを友として招かれ、共に行かれる。私たちも包み隠さず、思いすべてを持って共に歩ませていただこうではありませんか。
さて、自分の思う時に思う結果を出さない、自分の思うとおりにしない神様など神ではない、と自分のために動く神を造らせるイスラエルの民でしたが、モーセのとりなしの祈りによって何とか神様の怒りはおさまりつつも、神様は御使いを遣わし、約束の地にはいかせるけど、神様ご自身は一緒にはいかない、と仰られるのでした。しかしモーセはそれではだめだ、神様と一緒じゃなきゃダメ、神様がいなければ約束の地に行こうが癒しが与えられようが、神様の恵みがなければいのちがなければ意味がないと神様に食い下がる、その場面が↑になります。
神様とモーセの会話の前の部分はちょっと分かりづらいかと思うのですが、まだ幕屋の建設は始まっていないので、実際の天幕、会見の幕屋はないので、モーセは宿営の外に特別に神様とお会いする場所を聖別し、彼がこの幕屋に入ると、神様が訪れてくださった。顔と顔を合わせて。本来ありえない、でも神様は本来私達とそのように深い関係に招かれている。モーセのように、私たちは神様との時間を聖別しているだろうか。そして、ヨシュアもいつもモーセの従者として傍にいたように、私たちは神様の御そば近くから決して離れることがないようありたいものです。
話を進め、モーセは神様が一緒でなければ意味がないんだ、と、なら「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください」と食い下がります。ただ一緒であればいい、というだけではなく、神様の御心に叶う、その道を示して下さい、と訴えるのです。神様の御心のうちに完全な愛が、善が現される、これを願ったのです。
そこで神様は「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と答えます。しかしよく見ると、まだ神様は「あなた=モーセと一緒に神様が」行ってくださり、導かれる、というだけで、まだイスラエルの民と一緒に行くとは仰っておられません。
そこでモーセは「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください…」と食い下がります。モーセは自分だけ約束の地に行ければ良い、ではなく、彼はイスラエルの民の一員、だから民を赦し、共に行かせてほしいと乞い願うのです。
私たちはたしかに自分が幸せになれば良い、と思うかもしれない。でも、それだけではなく、イエス様は「御心が天で行われるように『地』でも行われますように」と祈るように教えられた。自分のにありますように、ではない。神様の御心は、願わくばすべての人が神様に立ち返ること、そして本当の安息を得ることにあった。神様の栄光が全治に広がり光り輝くことを。あなたを通して、周りにさらにその真の光が広がることを。そうなったら何と幸い。
そのモーセの執り成しの祈りを聞き入れた神様は、モーセに一つの岩を示し、そこに立つように仰ります。そして神様の栄光が通り過ぎる時は岩の裂け目、その神様の姿を見ることはできない、しかし、その後ろ姿を確かに見ることができる、と。何でも良いどこかの岩ではなく、神様が定められた1つの岩に立つように、と。それはイエス様。揺らぐことのない確かな救いの岩。神様が私たちを立たせて下さるのです。そして時に暗闇の中を歩むとき、何故こんなことが、と思うような中にあっても、例え今何が起こっているのかわからなくとも神様の御心、栄光を私たちは仰ぎ見るようになるのです。見る=分かる日が来るのです。
あなたは今日、誰の上に立っていますか。イエス様はあなたを友と呼び、ある偉い人だけを救うというのではなく、罪人を招かれ、救うために来られた。その私達を友と呼び、私たちの暗闇、痛み、何より罪を身代わりに背負い十字架にかかられ死なれたほどにあなたを愛された。陰府にくだってまであなたを引き上げ、復活とともに、新しい真っ直ぐな道を歩ませてくださるように。確かに世の中色々あります。しかし、この共なるイエス様があなたと顔と顔を合わせ余の終わりまであなたを導かれる。命を持って悔い改める全ての人をこの道に引き上げられたのだから。
この1つの岩、裂け目から続く道は確かにこのイエス様の命がけの愛によって開かれた、神様に続く道。神様がこの愛をもってあなたの内に栄光を現してくださる、御心を表してくださる、安息へと導いてくださることを信じ、期待し、祈りつつ、歩もう。ヨシュアのように神様のみそばから離れず、歩ませていただこうではありませんか。確かに神様の善があなたの前を行き導かれるから。
