「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。『宿営の中にいくさの声がします。』するとモーセは言った。『それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。』宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。モーセはアロンに言った。『この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。』アロンは言った。『わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。彼らは私に言いました。【私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。】それで、私は彼らに、【だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ】と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。』」
出エジプト記32章15-24節
嘘は嘘を生み出し、結果負のスパイラルに陥ってしまう。ろくなことがない。逆にごめんなさい、謝罪は、次への発展を促す。赦す赦さないはそれぞれの問題でしょうが、逆に許さない心はかえって自分を苦しめる。私もそうだったし。私たちが神様に立ち返るなら、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と聖書にある通り。あなたは神様の恵みを今日、求めるだろうか。
さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登ったその間山の麓で待っていた民が、神様が養ってくださっているのにも関わらず、「モーセ」がいない、下山に戸惑っていると不安になり、アロンに新しい神を造らせ、淫行を伴うとんでもない祭りが行われていた、それを神様は見ていた。彼らが神様はもしかしたらいない?と疑問に思う中で神様は養って、その心を留められていた、にも関わらず彼らはとんでもない事を行ってしまった。そこで神様はモーセに事を告げ、モーセも彼らのためにとりなしの祈りを祈り、下山をするところから↑が始まります。
ということで、モーセは神様から頂いた、神様直筆の十戒の板をもって下山します。神様の作そのもの、ここに神様がどれだけの思いをかけて作られたのでしょうね。契約の箱の中に神様は十戒の板を納める計画です。神様の思いが詰まったものだったのではないか。それをモーセはもって降りた。神様がこれだけあなた方を思っているんだ、と。
ところが、山の麓でモーセの帰りを待っていたヨシュアはモーセを見て、「宿営の中にいくさの声がします」といいます。彼はいくさに加わろうとするのではなく、神様の時を待っていた。モーセが神様の御告げを受け、それを待ち望んでいた。結果、彼は罪、誘惑から守られたのでした。しかし、それはモーセが神様から告げられていたとおり、耳にもしたくない「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声」だったのでした。願わくばそうではないことを期待して降りていったのかもしれない。しかし、現実は乱れに乱れた状態、神様の仰っていた通りの状態になっていたのでした。
たった40日。しかも、モーセがいないのではなく、神様が彼らを養って守ってそばに居られたにもかかわらず、彼らは神様を見ず、モーセが、モーセが、と疑念を抱き、ついにはモーセなる者が、とか言い始めた。結果何が生まれたのだろう?淫行を伴い踊っても、彼らは先に進む、と言いながらも進まない。虚しさだけが残ってしまう。
それだけではない、神様直筆の作品が、思いが砕かれた。モーセの怒りもあるでしょうが、神様の思い、彼らをこれまで愛し導いてきた思いが裏切られたと言うか、砕かれたのは間違いない。神様の悲しみを引き起こし、彼らを滅ぼすべきか、と嘆くほどの状態になっていたのです。そして彼らが頼っていた「作り物」の偽神はあっさり砕かれ、彼らがそれを飲み込まなければならないというとんでもない状況になっていたのです。罪の苦味を知るためか。
それにしてもアロンの言い訳がすごいです。アロンは大祭司ですし、モーセがいない間彼らを守らなければいけない、神様にとりなすべき立場、その彼が見逃して、彼らのしていたことを自分で引き起こし、自分では黙ってみていたのですから。アロンは自分で彼らから金の飾りを集め、彫像したんですよ?金の子牛を。そして明日は【主】(真の神様を現す時に使われる言葉)のための祭りだ、と自分で宣言しておいて自分は黙ってみているだけ。何たるひどい話。
さらには、彼の言い訳に注目すると「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」と彼らに全部責任を押し付けているのです。ちなみにここにある「主」は一般的なリーダー的な表現です。神様の「主」とは別です。
彼らは悪い、自分は悪くない、と言わんばかり。しかも、32章前半で彼は、「それを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。『あすは【主】への祭りである。』」と自分で彫造したことを隠し、これを神と呼び、しかも真の神様と呼び、その神様への祭りをしよう、と自分で言ったのです。勝手にそんな出てくるわけがないじゃないですか。結局アロン自身も罪を犯したことに彼は気づいていなかったのです。
嘘は嘘を呼び、負の連鎖を生みます。神様から離れたところには恵みはありません。何かそれこそ金の子牛のように自分たちが欲する通りになったとしてもそれはあなたにいのちを注ぐことはできず、いつかは打ち砕かれるのです。しかし、12弟子の一人ヨハネがその手紙に書き綴ったように「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちに」ないのです。神様の恵みがない、何と悲しいこと。そして砕かれた板のように、神様のあなたへの御心が砕かれてしまう。
しかし、それでも神様は真実で正しい方ですから、神様に悔い改め立ち返るとき、イエス様が背負われた十字架と復活による贖いによって私達は罪赦され、洗い聖められるのです。その割れた板の代わりにイエス様が命を身代わりに砕かれた。そして金の子牛という悲しみの罪の粉ではなく、あなたを生かすイエス様の命の盃を差し出されるのです。神様がそうしてあなたをあたらしく変えて下さる。言い訳で崩れてしまった、罪で崩れてしまった私たちではなく、イエス様の復活の命による新しいあなたへ。
私たちは今日神様の御前に何を期待するだろうか。アロンのようにただ他人事のようにながめるのではなく、神様の御前に今一度立ち返り、神様の恵みにより新しくされた喜びの命を歩ませていただこうではありませんか。
