「主はモーセに告げて仰せられた。『あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。』」
出エジプト記30章11-16 節
大概の人はお金では買えないものがある、と言いながらも買えないものを別な手段でなんとか得ようとする。古今東西でみるなら不老不死とか、愛とか。逆に買える、とお金もちは主張し、健康のためとか、大金をはたいて得ようとする。しかし、それはやがて人の心を支配していく、蝕んでいく。神様は私たちのために御子イエス様という最高の方の「いのち」をもって私たちを思い煩い、罪から救い出そうとされた。お金ではない。いのちで。この愛を受けたなら私たちはこの新しい命をどう生きるだろうか。
さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、今回の箇所では神様は人口調査について語られます。日本でも国勢調査の名のもとに人口調査を行いますが、本質的には人口調査は国民がどんな人、特性があるのかなどを調べ、より良い方向に持っていくべきはずのものなのですが、残念ながら結局は税金を徴収するすべとして使われるていますね。
ただ、今回「神様が」この人口調査について語られています。その意図はどこにあるのか、相当深い、面白いものがあります。この際、登録する人は贖い「金」を払うように命じられます。お金を取るのか、と理解しがたい内容に聞こえますが、まず、支払う「贖い金」はだいたい100円くらいだそうです。これならなんとかなりそうですよね。
現代のイメージでどうしても税金を取るためのもの、とイメージされますが、この人口調査の本質的な目的は、「自分たちがどこに所属しているのかを覚えるため」に行われます。また、「どういう賜物がある人がいて、どんなことに困っている人がいるのか」を知るためにという側面もあります。
そうして考えてみますと、この贖い金というのは、救ってやったから金を払え、というものでもなく、救われた人が義務として捧げる献金とか、そういうものではないということがわかりますね。神様によって贖い出され、買い取られた、神様の家族に招かれた、それを「覚えるため」のものであり、今の私たちでいうなら共同体を支え合いましょう、という意図が神様にあるのです。どうしてか?同じ神様に贖われた神様の家族だからです、姉妹兄弟、家族を覚え、助け合いましょう、というのがこの神殿税、贖い金の意味があるわけです。
どうも昨日まで見ていた幕屋や神殿、贖い金などという言葉が出てくると私たちには関係ない、と思いがちですがそうではありません。私たちは神様の住まわれる、幕屋の栄光、神様の愛に溢れたところに招かれたのです。別に入場料、利用料を取る、というわけではありません。逆にイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ死なれた、その「いのち」という「贖い金」が支払われ、私たちはこの共同体に、神様の家族に招き入れられたのです。その中で支え合う、愛を受けたものとして、自分を愛するように隣人を愛する事を覚えるわけです。これは昨日分かち合わせていただいた香を、隣人を覚え、捧げるということに繋がってきますね。
私たちも、イスラエルの民が過ぎ越しの時に救い出されたように、私達はイエス様の十字架によって救い出されたわけです。その私達に、贖い金、半シェケル約100円と言う名の、奉仕や祈り、姉妹兄弟を愛することを神様は願われているのです。お金の問題ではない、本質は愛。神様の愛を受けたゆえの応答。
イエス様はある時、律法学者たちがイエス様を試し、律法の中で何が重要なのか、それを問い、自分がいかに正しいことをしている、「神様を愛し、隣人を自分のように愛している」と自負主張する彼らにこのように話されました。その隣人とは誰なのかを。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と。
神様に仕えた実に仕えるはずの際しが、事もあろうに困っている人を置いていった。奉仕があるから、汚れては困る、とあれこれ言い訳を付けて彼らは今にも死にそうな人を置き去りにしていった。まあ、強盗がまだいるかも知れないという恐れがあったのかもしれませんが。
しかし、当時イスラエルの中で異端視されていたサマリヤ人はそんな事は関係ない、と彼を介抱し、しかも、彼の治療のためにと、借金としてではなく自身の手持ちのお金から宿代、治療費を必要なだけ払ったというのです。
少しこれを私達に適用してみますと、この強盗に襲われた人は、世やこの世の思い煩い、サタンの口撃による傷、悲しみによって動けなくなった私達に対して、無償の愛をもって、一方的なサマリヤ人という名のサマリヤ人の姿を見ることができますね。しかも嫌われていたサマリヤ人、ご自分の国に来られたのに、受け入れられず、裏切られ十字架にまでかけられ死なれたイエス様、このイエス様がご自身の命という贖い金、私達が回復、命を得るために差し出されたのです。
そんな私達にイエス様は近づかれ、聖霊様という名の油を塗られ、ぶどう酒という名のイエス様の血で洗い聖め、贖いの衣で包帯をされ傷を覆われ、イエス様の乗り物であるロバに乗せ、世の旅路において安全な宿屋である教会、神様の家族のもとに連れてきてくださったのです。安全な場所に。しかも介抱できるように必要なだけ銀を支払われる、イエス様の御心を働かせてくださるのです。御力を現して下さるのです。神様にあって私たちは神様の記念、最高のあなたへと洗い聖めてくださるのです。
イエス様は最後、行って同じようにしなさい、と仰りました。私たちは誰かを救うことはできません。イエス様のように。贖い金はイエス様が支払ってくださったからこれを支払うこともできませんが、しかし共同体を支える、あなたが遣わされている場所にあって神様の、御心が表されることを祈ることはできます。ないし彼らを愛し、仕えることができるよう祈りつつ、安全な宿屋である神様のもとに私たちは案内、証し、あなたの持っている賜物をもって、仕えるものでありたいですね。
自分たちの持っているお金では何かをすることはできなくとも、あなたの賜物、時間、祈り、あなたの持つ何かを神様に捧げるとき、神様はこれを用いて私たちが想像し得ない何かをなして下さる。私たちはこんな物は意味がない、と贖い金を投げ出すのではなく、むしろ神様に委ね、神様の御心に用いていただこうではありませんか。神様の木、ぶどうの樹から結ばれる見に大いに期待して。