「『…祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。…』」
出エジプト記29章38-46節
今のコンビニはほぼ24時間営業で、その名の通り便利ですね。数十年前は24時間やっていない地域がかなりあったものですが。ある用事で、東京の僻地に行った際に日をまたぐ前にすでにしまっていた某コンビニには驚かされたのを覚えています。まあそんな与太話はどうでもいいのですが、神様は24時間365日、いつでもあなたの声を聴き、答えて下さる、導いて下さる。神様を便利・コンビニ扱いするというわけではなく、それほどまでに愛をもってその御手を開きあなたを待っている神様に、私たちもいつ留まり、その愛の中生かされ、歩もうではありませんか。
さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、この幕屋で仕える事になる祭司の任職のために捧げられるいけにえ、今回は日々の歩みの中で捧げられる生贄についてになります。
この中身、これが昔の単位なのでわかりずらいので、私たちのなじみある単位に直すと、0.95リットルの上等の油に、小麦粉2.3リットルを混ぜたもの、それにぶどう酒0.95リットルを添える。0.95リットルと言うとだいたい日本で言うなら牛乳パック一本分くらいですね、それくらいの上等の油、オリーブ油と、ぶどう酒が使われていた。それだけの量と考えると結構な量になりますね。グラスに注がれる量とかを考えれば。そして1歳の雄羊1頭を朝ごと、夕ごとに祭壇で焼いて、煙にし、香ばしい捧げ物として捧げられました。
この量を見て皆さんはどう感じるでしょうかね。多いと思うか、少ないと思うか。これだけのものを用意しなければ神様との交わりを持てないのか?これを宗教行事的にとらえるとけっこう大変だと思います。いくら羊飼い文化を持っていても、毎朝夕ですからね。どうでしょう?
これは正直な話、けっこう大変な量だと思います。毎朝ですから。出エジプト記の続きにあるレビ記には任職の際の生贄には朝夕のささげものはでてこないので、やはり毎朝夕祭司が捧げるものだったようです。では祭司は何のためにこれだけのものを毎日のように捧げていたのか?言われたから仕方なく?しかし、以前アベルとカインの生贄の捧げ物について分かち合った時、神様は捧げ物以前に、彼らの心を見て、その捧げ物を見て、その上でアベルの方は受け入れ、カインの方は受け入れなかった、とあります。
ある意味では彼らはいやだ、と言って断ることもできるでしょうね。まあ、その場合は祭司にはそもそもなれなかったのでしょうけど。しかし、彼らはそれを受け入れ捧げる。何を願って?そもそも、このいけにえについては神様が仰られたことであり、それには「これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である」と、約束が伴っています。
神様は、絶えず、私たちとお会いし、語って下さる。そして神様の栄光によって聖としてくださる。神様ご自身が私たちの間に住まわれ、神様の御心を現して下さる、そこに進み出よう、と神様は訴えているのです。生贄の量云々の問題ではないのです。
これまでも見てきましたが、私たちはご自身の身前に招かれているのです。本来は祭司しか近づけないはずの幕屋に、これまでみてきたように罪の赦しを受け、神様に近づき、その栄光を仰ぎ見させていただけるよう招かれているのです。ただこれをすれば良いんでしょ?あれをすれば良いんでしょ?とかそういう話ではないのです。神様がそうして私達を招かれているのです。
私たちはイエス様が私たちが本来捧げるべき上質の生贄、捧げ物となられたので、これを捧げる必要はありませんが、本来私たちが捧げるべき生贄の身代わりにイエス様が来られ、イエス様の方から私たちを招いてくださっているのです。
おそらく多くの人が↑の捧げる量を見て、もし当時生きていたら無理!と思ったでしょう。私も正直言いますと無理、と思いました。しかし、イエス様は命がけの愛をもって私たちの生贄となられるため十字架でその肉を割かれ、死なれた。ただ1回の死によって、すべての人のための贖いの代価、生贄となられた。これを私たちが受け取る時、私たちはこのイエス様の招かれた家族、栄光のうちへ招かれるのです。
神様は、遠い存在ではありません。高級な生贄を毎日捧げろ、と言っているわけでもありません。以前の分かち合いで、捧げ物の中には家鳩でもかまわない、とありましたが、それは貧しい人のためにそれでもいいよ、と神様は仰られた。神様はそのように遠く離れた存在ではなく、ご自身からあなたに近づいてきてくださった。神様が私たちのうちに住まわれる。何と幸いなことでしょう。
むしろ私たちの最善を神様に捧げることを神様は今イエス様にあって願われているのです。先程、捧げる側の思いの話を申し上げましたが、神様は最善を持ってあなたをも手なし、その幕屋に招かれている。このイエス様にあって私たちは神様の子としてその食卓に招かれているのです。私たちが多い!と思った捧げ物以上の最高の未心を、栄光を現してくださるのです。
だから沢山お金を捧げなさい、とかそういうことではないのです。私たちが捧げることができるのは私たちの時間だったり、これは捧げたくないな、と思う心の深いところだったり。しかしそれらを神様の御前に進みで、差し出すとき、捧げるとき、神様はこれを新しくして下さるのです。パウロという人がその手紙に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書いているとおりです。
神様が、全てを新しくして下さる。私たちはこれは捧げられない、と留めておくのではなく、私たちの思いも、重荷もすべて主の前に委ねよう。神様は朝夕問わず、いつでもあなたを待っておられるのだから。あなたにとっての上質なオリーブ油や小麦粉、ぶどう酒は何かは私には分かりませんが、あなたが神様の御前に祈るとき、神様は喜んであなたのうちに栄光を現して下さる。御子イエス様の命を惜しまない方がどうして惜しまれるだろう。神様の惜しみなく注がれる愛に惜しみなく私達も答えようではありませんか。