ー大切な装束・着物3(宝石2)ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。…』」

出エジプト記28章19-21節

 

私たちは不完全。クリスチャンであっても。しかし、不完全な私たちをそれでも神様は愛し、その御胸のうちにあなたを覚え愛し、導こうといつも光を示されている。私たちは小さいかもしれない、それでもあなたを輝かせて下さる神様に信頼し、神様が放たれる光、そこに見る勝利の道、命の道を歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉エポデにはめられる宝石、4列の内、3−4列目が示されています。まず第3列目から。第3列目の、正面から見て左側の一番目にはヒヤシンスの宝石に、ヨセフの子、エフライムの名前が刻まれています。ヒヤシンスは、比率と硬さが安定しているそうで、またそこに刻まれるエフライムという名前は、実りが多い、という意味があるそうです。ヨセフがかつて奴隷としてエジプト売られていた中、神様にそれでも従い、結果、総理大臣となり、多くの実を得たことから名付けられたわけです。

 

まさにイエス様は同じように人となられ、苦しみを受けられ、一粒の麦として地に落ちて死ぬことで、多くの実を結ばれた、まさに苦難のしもべとそこにある豊かな実りがそこに示されたのです。そして同じように第1列で十字架の救いを知って、第2列でイエス様を見、聞いたなら、今度は世に仕え、祝福を祈ることを祈ることを望まれているわけです。そのためにイエス様にしっかり繋がっていく必要があるのです。うして時に実りを見ない日が続くかもしれない中でも世に仕え、祝福を祈る時、神様の無尽蔵な天の宝が、富が世に広がり、御国が広がっていくのです。そういう意味でまず私たちが世に仕え、祝福を祈ることが必要、その前にまず私たちが神様に繋がっていこうではありませんか。その時私達自身も喜びが満たされ、周りも変えられ、輝いていくのです。

 

さて、3列目の2番目には、同じようにヨセフの子マナセの名前が刻まれた瑪瑙が置かれました。瑪瑙には、とりこされる、帰る、留まる、主の主権的な力、汲むという意味があり、マナセには忘れ去る、という意味があります。

 

そう、第1列で見たイエス様の十字架の、命がけの愛によって、私たちの罪を帳消しにされます。そして赦され神様のもとに帰る時、新しい命が与えられ、今見たように、神様の祝福が無尽蔵に蓄えられ、私達は神様の祝福を、神様の御言葉に聴き従う時、汲み取るようになると約束されているのです。たとえ困難な中でも、神様はもう私たちのうちに住まわれ、私たちのうちに働きかけて下さることによって、私達が求めるとき、神様の無尽蔵な神様の働きを私たちは体験するのです。私たちは神様を見、この方の声に耳を傾け心満たされる、世にではなく、この方だけを見つめるようここに示されたのです。神様はあなたを見て聴いている、あなたを縛り付ける問題や現状、他の神々ではない、神様を見て、ついてきてほしい、と。そうして神様に従う決断をする時、神様は喜んであなたの魂に至るまで安らぎを、命を与えられるのです。

 

続けて3列目の3番目にはベニヤミンの名前が刻まれた紫水晶が置かれました。紫は王権の象徴、という意味、ベニヤミンには右手の子、という意味があります。ベニヤミンはその誕生は悲しみに満ちていました。彼が誕生する時、母は死んでしまう。その母は悲痛な声をもって、その子に、わたしの悲痛の子、苦しみの子と名付けました。しかし父ヤコブは右手の子、と名付け変えたのです。右手というのは自分にとって最も信頼する存在、立場を意味します。

 

そう、神様は御子イエス様を、十字架の死という悲しみから復活させ、ご自分の身の元につかせ、すべ治められる。罪の支配、悲しみの時代の終結の印として。そして、私たちにも救いの力と支配を、根絶えることのない、命ある生涯を保証し、後には神様と永遠に住まうという希望を与えられたのです。悲しみの子・苦しみの子から、私たちは新しい、神様に仕えたイエス様の家族・喜びに私達は変えられる喜びに満たされる幸いを得るのです。

 

さて、4列目の1番目にはダンの名前が記された緑柱石がはめられました。聖書の中で緑柱石は、花嫁が花婿の麗しさを現していることを緑柱石と表現されていることから、神様の麗しさ、神様の圧倒的な輝きと力を象徴するそうです。また、ダンには裁く者、弁護するもの、という意味があります。

 

イエス様もその十字架によって、これを受け入れた人を弁護されます。最後の審判の際に、この十字架を受け入れた人を、無罪と弁護してくださるのです、私たちを。ダンについて、彼の父ヤコブは己の民を裁くと預言している通り、まさにその約束がここに示され、同時にモーセは後にダン部族は、小部族でありながら頭角を現す、と預言しました。あなたは小さいかもしれない、しかし、あなたはやがて頭角を現すよ、と。この神様がすべてをご存知、罪をほうっておくことのできない神様が私たちの足を守り、この方にしっかり繋がり希望を置くように示されたのです。この内に聖霊様が働かれ、あなたがたとえ小さく、神様が働かれ強くされるのです。その日がかならず来る、と。何という幸い。


次に4列目の2番目にはアシェルの名前が刻まれた、縞瑪瑙がはめられました。縞瑪瑙には、荒廃、肥沃、油という意味が、アシェルには祝福された、幸せな者とされる、という意味があります。彼の父ヤコブはアシェルについて、その食物が豊かになり、王のご馳走を作り出すと預言されました。また、モーセは後に、彼の部族について、その足を油に浸す・聖霊様に満たされ、神様の敵を破壊する力を得ることを預言されました。偽預言者、サタン、またあなたを神様から引き離そうとする様々な問題を打ち砕くと、ここに力強い約束されているのです。

 

私達が聖霊様に満たされ、神様とともに歩むとき、私たちが踏むところどこにおいても、豊かな、恵みの畑を生み出し、御国が建てられる。一方で平和の神様があなた方の足ですみやかにサタンを踏み砕いてくださる、サタンの敗北、あなたを縛り付けるものを踏み砕かせてくださる。イエス様はよくそこで神様の声を聞かれた。同じようにそのような荒廃した場所にあっても神様を求める時、そこで肥沃な神様の命を頂き、聖霊様をいただき私たちは圧倒的な勝利者となるのです。

 

最後の3番目には、ナフタリの名前が刻まれた碧玉がはめられました。碧玉には、裸にされる、衰え果てる、破壊的な力という意味が、ナフタリには我が戦い、という意味があります。ナフタリの父ヤコブは放たれた雌鹿、美しい子鹿を生む、と預言されました。この放たれた、という言葉は、遣わされる、送り出されるという意味が、雌鹿自体も力の象徴を現しています。

 

そう、イエス様が遣わされ、その力を風を吹かれるとき、君主たちは枯れる、と後に預言されている。つまり第1には人となって十字架にかかり罪を打ち砕き、第2には再臨の時、サタン、罪、一切を打ち砕き、全てに勝利されるという約束がされているのです。必ず、あなたの辛い時、迫害のときは終りが来る、必ずあなたを見て聴いておられる神様が勝利を治められるから、だから神様を覚えて信じていてほしい、何か辛いことがあっても神様が見て聴いておられるから忘れないでほしい、と。あなたのために御子イエス様を十字架にかけるほどに愛し覚え、愛してい神様が風、聖霊様を送られるとき、美しい子鹿、命、何かがここに生まれてくるのです。

 

昨日今日の話をまとめますと、当時の大祭司は不完全なアロンでした。しかしイエス様はただ一度、私たちの罪のためのなだめの供え物となって贖いをなされた、完璧な大祭司です。ここまで見てきたエポデにはめ込まれた宝石、愛、救い、力、導き、救い、というご性質、一切がイエス様のみ胸のうちにあるのです。あなたの名前を覚え。あなたの名前がイエス様の胸に今でも刻まれ覚えておられます。私たちが古い自分を神様に脱がしていただきイエス様が着せられる時、私たちのうちに神様が働かれるのです。私達は今もう一度イエス様が私たちのうちにイエス様が住まわれている喜びをいだき、またこの希望を、悲しみの中にある人達、暗闇の中にある人達に届けましょう。こんなところ、と思うところにも神様の御国が、光が広がっていくから。