ー聖なる空虚ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびを整えなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。…』」

出エジプト記27章9-21節

 

私たちは様々な悩みを抱える。うまくいっているようでいっていない、だからあれやこれやで自分の内側を満たそうとする。でも、神様はあなたを最善で、何もないようで神様ご自身であなたの内側、あなた自身を満たしたいと招いておられる。私たちはこの門の前に思い煩いを置いて、この聖なる空虚さ、大庭に入って行かせていただこうではありませんか。そこで神様はあなたに良いもので満たして下さる為待っておられるから。

 

さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、神様が住まう幕屋の具体的な設計を指示されます。神様は何もない所に、祭壇とか、生贄を捧げる台とか、至聖所・聖所をボンっと置くようにとは一言も言っていません。外と隔てるかのように亜麻布でその周囲を囲うように仰られます。

 

↑を見てあまりイメージが湧かないと思うので、毎度画像を出していますが、単位を現在のものに置き換えると、こんな感じになります。門のある東側、その東西はそれぞれ44.5m、南北がそれぞれ22.5m、高さが2.2mになっていて、その内側が庭と呼ばれる場所となっていて、東側に門を設けて、そこに高さ8.2mの掛け幕の幕を建てるように、と仰られました。この門から、生贄を捧げるために人々は入ってきました。罪の赦しを求め、本来あるべき神様との関係の回復を願い。

 

さて、これをみると神様はまるで外の世界と隔てるように、と仰っているようにも聞こえる。外と隔てるように幕で覆うわけですから、特別な空間といえば空間になっています。神様は、外と中を隔て、特別な人以外ここには入ってはいけない、と仰っているのか?その中で隠遁生活のように生きるように仰っているのか?

 

それは半分正解、半分不正解。もし完全に世と隔てるというなら、どうして入り口に門を設けたり、頑張れば入れるような高さの幕でこの特別ともいえる空間を覆う必要があるのでしょうか?特別な人だけしか入れないならそんな門は不要です。神様はマナを降らせたり、何もない所に水を湧き出させる事さえできる。そもそもこの天地万物を創られた方ですから、何でも備える事ができるでしょうし、人数の問題があるなら大きくすれば良い。でも、そうはされなかった。入り口、門を造るよう仰られたのです。

 

ではまず半分の正解部分、やはり世との分離、正確には罪から私たちは離れる必要があります。姦淫、盗難、偽証…十戒に出てきたものだけではなく世の中を見回せば様々な犯罪も見えますよね。しかし十戒で見たようにそのような事をする必要はなく、神様がそうしなくて済むように助けて下さる、だから、罪の赦しを受けに神様のもとに立ち返ろうよ、と訴えるわけです。門を設け、本来あるべき命を受け、本当の意味で生きる事を願い。

 

昨日の分かち合いで、エルサレム会議で割礼(男性のシンボルの皮の先を切る)をイエス様を信じ受け入れた人でも、割礼を受けていない人はみんな受けるべきだ、という話題の中で、パウロは「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です」と言っていました。パウロは伝道者ですし、まあ良いよ良いよ、ありのままでいいよ、救われたならどうせ赦されるんだし、等と言えば信者も増えるだろうに、そうは言わず、やはり不品行は避けるべき、避けるべきものは避けるべき、と明言しました。

 

実際、この幕屋の中に生贄を捧げる場所を設けられているわけですから誰しも招かれています。神様は誰しも受け入れて下さります。それは神様の命を受けるべく、招かれているのです。世の中様々な事が沢山ある事は承知です。神様が何より知っている。だからそれらを全て置いて、思い煩いも全部この門の前に置いて、神様の恵みによって変えられる、赦され、新しいものとされていくこと、そのために神様は門を設けられたのです。神様は門外不出、差別される方じゃない、誰しも招いている。命あるもの、神様があなたに持っておられたイメージに回復させるべく。

 

イエス様はこう仰られましたね。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。…わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と。まさにイエス様が人となって生まれてこられたのは、私たちがこの神様のもとに立ち返るため、イエス様のみもとに重荷を下ろすため、そしてイエス様がともにそのくびきを負い、魂に安らぎを得させるため、その門となられたのです。そして「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りる」のです。

 

それにしても、実は大庭にはあまりごちゃごちゃしてません。しいてあるのは祭壇、後に出てくるのですが洗盤、あとは生贄を捧げるところにあるくらいです。どうしてか?聖なる空虚さがここにある。私達の様々なこれが必要ではないかと満たそうとしますが、むしろ神様の臨在、神様ご自身が色んな思い煩いを置いてきた私たちを満たし、新しくしてくださることが見えてくるのです。神様に近づかせていただくとき、あなたにいいもので満ち足らせていただけるのです。あなたにとっての神様が考えるベストを。

 

そうして私たちはまた世に出ていく。私たちは祭壇・十字架の前に悔い改めという生贄を捧げる時、立ち返る時、神様との関係が回復され、新しい命をいただき歩むものとされました。そして聖所に入っていき、神様との交わりを持っていきます。そこで、灯火を暗い時間消してはならない、と神様は仰られました。

 

どんなに幕屋の外、現実は暗い、うまくいっているようでうまくいっていないこともある。私たちはただある時だけ神様に従うのではなく、灯火、上質なオリーブ油・聖霊様に満たされ、私たちは出ていく、世に輝かせようではありませんか。神様との交わりの中に私たちは希望、平安をいただき、なおこの灯火を輝かせるところに神様の栄光、御心が溢れ流れる。私達はこの神様に大いに来たいし、この灯火を持ち、掲げ続け歩もうではありませんか。いつもイエス様の門に出入り・交わり・交流させていただき、私達自身もこの希望で満たされ世に出て行こうではありませんか。