ーなんでそこまでされる必要があるの?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。」

ルカによる福音書2章21節

 

世の中には様々な習慣があります。ただ習慣的に行っていること、文化、行事…もちろんそれらを一概に否定することはできませんが、何か意味づけをてしているのでしょう。ただ、それが何となくしている、というだけでは何の意味があるのか分からない。実際にある宗教の方と対談をした時に、理由はわからない、何を自分で唱えているのかわからない、という方もいた。実際そんなものでしょう。しかしイエス様は、私たちのすべてを背負うために、ありとあらゆる事を(罪を犯す以外)なされた。私たちの手本となるために。あれは意味がない、これは意味がない、と私たちの目で選り分けるのではなく、イエス様のみあとをついていこう。イエス様が私たちに何かを見せてくださる、それを大いに期待して。

 

さて、今日の箇所はたった1節ですが、非常に重要な意味合いを持ってきます。イエス様が割礼を受けられた、ということ。これはイスラエル民族へ神様がそのしるしとして与えたものでした。割礼は、男性のシンボルの皮を切る行為です。現在でも病院によってはしますか?と尋ねられることもあるそうです。ちなみにイスラエルの父祖ともいえるアブラハムはおとなになってから受けたので相当痛かったそうです。また、痛みもなかなか引かず、当時は数日間は身動きがとれないほどのものだったそうです。

 

これはある意味では罪の赦しであり、また神様の家族に迎え入れられる、という意味合いもあった。しかしイエス様は神の御子イエス様です。なぜそんな事を受ける必要があったのか。何の罪もないのに。さらには、実は後に公生涯を始めるに当たって、洗礼まで受けられた。あまりに不思議で仕方がない。

 

まあもちろん、イエス様は赤ちゃんとなって生まれてこられたのですから、自力で行くことはできませんから、育ての親となるマリヤとヨセフに連れられて受けに行かれたのでしょう。しかし、神様は、そんなものはイエス様には必要ない、と止めることもきっとできた。しかし、それをなさらず、そのまま割礼を止めなかった。

 

止めようと思えばできるんですよ?かつてそう、イスラエル民族の父祖アブラハムが息子イサクを捧げるようにと命じられたとき、それに従い、刀を振り下ろそうとしたとき、神様はそれを止められた、身代わりの生贄を備えてくださった、そういう意味ではできるのです。しかし、神様はそれを止めなかった。

 

イエス様は神の御子だから特別扱いを受けるわけではなく、人として生まれてこられ、その歩みの手本となられた。イエス様がしなかったのなら私もする必要はないでしょう、とならないため。もちろん、現在は割礼よりも、死から復活、という意味で洗礼というもの(水に沈み、起き上がる、イエス様も受けられた全身礼が正確には良いのでしょうが、病院で最後の招きの時などはそうも言えませんし、十字架上で死刑囚が悔い改めた時に罪赦されたから絶対というわけではない)になりました。

 

イエス様は私たちの道となられたのです。痛みを伴うことを避けることもできるのにされなかった。それだけではなく、更に後に洗礼まで受けられたことを考えると、まさに、イエス様は割礼で終わらせなかった。割礼はあれを覆いかぶせるもの、それを切る行為になりますが、それは私たちの罪を切る、でもそれで終わらず、罪を犯さなければ良い、ではなく、そこから最も大切な死から命へ移り変わる洗礼が必要だったのです。

 

罪を知る、認罪なくば赦しを求めることはできない(罪を犯していると思わなければ赦しは求めないでしょう?)。そうして、誰しもが神様に立ち返り、罪の赦しを得、新しくされる、その道をまず示されたのです。イエス様は罪を犯しませんよ?でも、私たちに必要なことは全て背負われたのです。イエス様には本来不必要なものさえ。十字架だって、裏切る弟子たち、群衆を見捨てて去る、十字架から降りて天に帰る事もできたかもしれない。しかしそれをされなかった。ただただ父なる神様の御心に従われたのです。

 

後に、この割礼を受けている人たちと受けていない人達の間に論争が起こります(エルサレム会議)。イエス様を救い主として信じ受け入れた人も、割礼を受けるべきか否か。12弟子の一人であったペテロはこのように言いました。

 

「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」と。

 

イエス様は、何の差別もされず、私たちが負っているくびき、まあこの論争時は割礼ですが、思い煩い、様々な問題が当時ありました。極端な話、今の時代でいう差別。ユダヤ人か否か、つまり割礼を受けているか受けていないか。でもそうじゃないんです。イエス様がわたしたちの重荷を全て取り除いて下さった。ただ割礼を受けた、でイエス様は終わらず、私たちの追うべき、負っているくびきを降ろされたのです。

 

この時参加していた、1世紀に伝道活動を同じようにしていたパウロなどは「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です」と結論づけました。割礼云々で救われる、救われない、ではない、あれをして良い、これはしてはいけない、云々ではない、イエス様が私たちのくびきを身代わりに負ってくださったのです。

 

ですから、その上でなお不品行を繰り返すのではなく、私たちはイエス様がその命をかけて十字架で身代わりに完全にくびきを取り除かれ、復活とともに新しくされたのですから、私達は受けたこの新しい命のうちを歩もうではありませんか。私たちの重荷を全てイエス様の御前に降ろしましょう。割礼を終わらせ新しい福音に、死をいのちに変えられたようにイエス様はあなたの重荷を新しい安らぎへと変えて下さる。全ての律法も預言者も十字架で成就された。もうあれこれ自分で重荷を背負う必要はない、あれをしなければこれをしなければ、に振り回される必要はない。辛くなって過去に帰る必要はない。

 

私達はこのイエス様の命がけの愛によって新しくされた命のうちを喜び歩もうではありませんか。イエス様が、御使いが告げられたとおりその名で呼ばれ、その生涯が始まったように、私たちはイエス様の命にあって新しく生まれ変わらせていただいた、その恵みに生きようではありませんか。私たちは過去に振り回されるのではなく、酔うのではなく、悲しむのではなく、イエス様に委ね歩もう。そこに命が、神様のくださる恵みが待っているから。