ー適当ではない最善をー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。その心切りばさみも心取り皿も純金である。純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。…』」

出エジプト記25章23-40節

 

仕事もなんでもそうですが、適当にやれば良いわけでもないし、仕事だと言われた通りにだけしかしないとこれまた言われてしまいますが、まず、言われた事を聴き従うことから始めますよね。それが積み重ねになっていきます。私が卒業した神学校では、職場では3ヶ月は何を言われても黙っていなさい、と。そして、その3ヶ月の間に認められ、話を聞いてもらえるようになりなさい、と言われたものです。まあそれはそれとして、神様が私たちに何かを語られる時、示される時、導かれる時、それは適当な事ではありません。いつもベストをあなたの内に置かれ、建てあげられる。神様の、私たちが考えるよりも遥かに高いご計画に信頼し、歩み続けようではありませんか。

 

さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、一昨日は至聖所と呼ばれる場所に置かれる契約の箱について見ましたが、今日はその手前、聖所に置かれるものについて神様は語られています。

 

至聖所と聖所の間には幕があり、やがてイエス様が十字架で死なれた時に、この幕が上から避け、本来大祭司という役割を持つ人しか入れない場所に、私たちも、神様の懐、御側に、ご家族に近づけるようになったわけですが、その聖所に置かれているものをまず見ますね。かなり細かい物が置かれていますが、だからといって神様は私たちのうちに無駄なものは語らない、置かれない、されない。

 

まず机が聖所の中の北側に置かれるわけですが、机の上には備えのパンが置かれます。これが安息日ごとにこれは新しくされ、古くなったパンを祭司が食べるようになります。このパンは小麦粉で焼かれ、輪型(ドーナツのようなイメージをすればいいかと思います)になっていて、6個ずつ2並びに、計12個備えられます。これはイスラエルの12部族の数になるわけですが、これを絶えず神様の前にあるようにするように、と神様は語られます。

 

別に何個でも良いのでは?とか色々考えたくなりますが、神様が語られるのだから当然訴えたい事があるのです。適当な数ではなく、また週によって数を変えるわけでもなく、置かなくて良い日があって良いわけでもなく、いつも「神様の御前に」置くように、と。12部族と言ってもその初代の中には近親相姦を犯したもの、妹のための復讐とはいえ、残虐な行為に出たもの、弟に嫉妬して兄たち10人で奴隷に売ったこともありました。また、その中でユダ族のユダが許しの懇願を最終的にすることになったのですが、じゃあその部族だけかと言ったらそうではなく、そうした罪を犯した人たちをも神様は招かれていたのです。この部族、この人達は関係ない、とかではなく、一部族たりとも洩らすことなく、神様の御前に、と仰るのです。

 

それは、神様が彼らを監視する、という意味ではなく、むしろ彼らが神様から離れないよう、導こう、養おう、忘れない、覚えている事を訴えているのです。罪を?いえ、彼ら自身を。そういう意味で、神様の御前にいらない人などいないのです。あなたは神様に愛されている、これは忘れてはいけない。神様は、その閉ざされた天幕を天から裂き、私たちを神様のところに招き入れようとしている、その事において、あなたが欠けてほしくないのです。

 

完全なる大祭司イエス様があなたを愛し覚え、天幕を命を持って開かれ招かれた、何と幸いなことでしょう。絶えることなく、新しいあなたへと神様はいつも聖め、新しくして下さるのです。それを各部族が捧げる、という事からも、やはり私達自身も神様が何でもしてくれるから自分はいい、ではなく、むしろ神様の御前に、命を求めていくものでありたいものです。

 

さらに純金の燭台を造るように、と言われています。幕屋について、25章の分かち合いの中で画像を出してきましたが、26章でも見る事になるのですが、幕屋は完全に幕によって覆われて、真っ暗になります。窓もありませんので。それゆえ、その燭台によって照らすように、「神様が」仰られた。神様は、その12部族、またあなたを照らしたいのです。ただ作って装飾品にするのではなく、むしろ幕屋という中に神様が光を輝かせて下さる。真っ暗闇の中を歩む中にあっても、イエス様があなたの道を照らし導かれる。心・魂にも、それこそ昨日見たような安らぎを与えて下さるのです。

 

そして、この幕屋の外側にいる人達にも光を灯すために、日々私たちは灯火皿に、聖霊様の油を満たしていただこうではありませんか。確かにこの苦難の時代に光を灯すなんて無理、と思うかもしれない。しかし、あなたは一人ではないし、一人で担ぐようにと、この25章、また幕屋作成のところでも、用いられていくところでも、一言も書いていません。

 

イエス様がゴルゴダの丘、十字架に、私たちの重荷を、悲しみを、罪を、全部背負って、私たちの身代わりに死なれ、また3日目に蘇られたことによって、この暗闇を光に、死を命に変えて下さる。古いパンは新しくされ、聖められるのです。復活のイエス様の命が、聖霊様の油があなたのうちに充満される。私も不完全、人も不完全。でも、神様はそんな不完全な私達を憐れみ、私たちをご自身のもとに、御子イエス様の命を持って引き寄せて下さったのです。神様の子、家族として招き入れられ、その命の交流に招き入れられるのです。イエス様がその水差しによってイエス様の血潮を、聖霊様の油を豊かに注がれる。

 

神様があなたのうちになされる一つ一つには、無駄なことは一つもない。神様が造るように命じられた細かい一つ一つが何一つ無駄がないように、神様の素晴らしい愛、御心、御力、ご栄光にあって満たされるのです。神様が御子イエス様の命にあって心を注ぎだし、あなたに与えられる一つ一つに感謝しつつ、私たちは歩もうではありませんか。神様は喜んで捧げる人から受け取るように、と25章の最初にありましたように、神様も喜んであなたにすべてを備えて下さる。私たちもすべてを委ね、捧げるものであろうではありませんか。神様が語られた、用意されたいのちの食卓の席に私たちも座らせていただき、養われ、歩もうではありませんか。