「『…見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこに入って行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。』」
出エジプト記23章20-33節
私たちの人生には地図がない。しかも挙句の果て、周りの状況、環境などによって、地図が塗り替えられていく。しかし、神様の道はこの世の道に影響されない。神様があなたの道を整え、まっ直ぐにされ、神様が導かれる。私たちにはわからない事が様々ある。それを決して卑下する必要はない。むしろだからこそ神様に全てを委ねよう。委ねていい。神様はあなたが頼る事を何よりも喜ばれ、いのちの道へと、緑の牧場へと導かれるから。
ということで、↑はこれまで見てきた律法の総括と、恵み、約束といった事が語られます。私たちがどのように歩むのか。神様は最後の総括の↑で、「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう」と語られています。「道」を守らせ、「導」いて下さる。この箇所を読んでいた時に二つの漢字がよく似ているなぁ、と思わされました。まあ、もともと向こうの原語に漢字はないのですが、ノアの洪水のあとに全世界に広がっていった、その中で部族、氏族が、神様がこれまでされてきたことを漢字に現したのかな、とも思わされる。そう思える漢字がかなりたくさん実はあるのですが、それを言い始めると、話が進まなくなるのでいつか機会があれば。
クリスチャンが「でんどうする」という言葉を使うとき、たまに間違って「伝導」と書き間違えることがありますが、この言葉、ないわけではないのです。それが実は↑の一番最初の神様の言葉に十分に現れているのですが、私たちが歩むべき「道・イエス様の救い」を「伝」えるのは人、と同時に、私達に歩むべき道を教えてくださるのは神様。そしてそれを「導」くために私たちに語られ、伝えられるのは理神様なのです。そういう意味で極論「伝道」も「伝導」も神様の働き、私たちへの愛でもあることが見えますよね。
私がある時預言の賜物のある方に、導いてもらった中に(以前結婚の話を出しましたが、その方)、あなたは左に行ったり右に行ったりと振り回されている(自分の家族や仕事などの状況に)、でも神様はその真ん中に一本の道を通してこの御地を導かれ、あなたを憩わせる、と語られた(英語で語られていたので正確な訳ではないですがだいたいそんな感じのこと)事がありました。
そうなんですよね。私たちは、序論でも書きましたがこの世のことにどうしても振り回されてしまう。でも神様はそんなものに影響を受けることなく、私たちが歩むべき道を、なにもないようなところに道を作られ、いのちの川を流れさせてく出さる、養ってくださり、また↑の最初の神様の言葉のように、守り導きながら行かせてくださるのです。
話は↑に戻し、更に神様は続けて語ります。「あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない」と。今目の前に火の柱、雲の柱の形を持って神様が彼らを昼夜問わず導き守ってくださっている、道のない荒野を、戦いには勝利を収めさせ、水のないところには水を涌出させ、食べ物をも毎日送ってく下さる(安息日意外。安息日は、その前日に二日分与えられていた)。それはある一時だけではない、今も聖霊様が私たちを導かれる。イエス様ご自身も聖霊様を汚すような罪を問題視しています。「わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである」と。
厳しく聞こえますが、逆に神様はいつでもその道を示し、語られ、導かれる。「しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう」と約束されているように。あなたの周りの問題、苦しめるもの、究極的には罪・サタンに完全に勝利させて下さるのです。
パウロは手紙にこのように書いています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と。イエス様の命をあなたに与えるほどに愛される神様が、あなたを導かれ、守られる、その愛から引き離す事ができるものは何もないのです。
神様は、あなたを愛するがゆえにあなたが滅びゆくことを悲しまれる。様々な目に良さそうなものを、あのエデンの園でエヴァ、アダムを誘惑してきたサタンがあなたに見せてくる。しかし、「あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる」との約束を握りしめよう。神様の備える、導かれる道は、養いは、いのちは、どうしてこの世のものに打ち負かされることがありましょう。闇は光に打ち勝たない。
それは現実様々な問題はあります。しかし、神様が追い払い、打ち砕いて下さる、と約束されているのです。それは私たちの目には時間がかかっているように感じるかもしれない。しかし、↑の一番最初の約束、神様があなたを守り導かれる。その道を整えてくださるのです。私達が、あなたがイエス様の十字架と復活による救い、これを受けいれるとき、神様はあなたと永遠の契約、いのちを結ばれる。そのうちに神様の愛が溢れる。私たちはどんな問題、苦難、思い煩いに悩まされる事があろうとも、この方から目を離さず、御声に従い、導かれ、歩もうではありませんか。
