ーねじ曲がった関係ではなく・バカ正直でいいー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。」

出エジプト記23章1-9節

 

伝言ゲームってありますよね。でも面白いことに、これがだんだん中身が変わっていって最後の人まで正確に伝わっていくことはめったに無い。ゲームなら、その最後の変わりようが面白かった、で済ますが、人の噂、となると別です。噂が噂を呼び、広がる、しかも途中憶測まで交じる。更に悪意がある人がいればさらに悪い方向に向かう。そういう意味で情報元にきちんと確認すること、そして情報源も、ただ面白おかしく流すのではなく、本当に命あることを語りたいですね。何より神様はあなたに福音・グッドニュースを語られ、いつもあなたを養い導かれるから、この神様にいつも立ち返ろう。

 

さて、今回の律法のテーマは端的に言うと、「ねじ曲げない」こと。今直前の序論でみたような噂、証言、訴訟、人間関係、賄賂、在留異国人(隣人も)にあります。このおおもとの関係がねじ曲がっていると、あっちこっちほつれてきてしまう。そういう意味で、神様の言葉を私たちは疑ってはいけない。

 

そのあたりの話はまた後半の方で見ますが、まず23章は「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない」と、偽りの証言・偽証について語られていますね。

 

人は何かを語る時に、必ずどこかに立ち位置をおいています。立場、どっちについたら自分は有利でいられるのか。でもそんなことに振り回されていたら疲れないだろうか。それに悪者と組んで、悪意ある証人となってはいけない、といいますが、まあある意味当たり前といえば当たり前なのですが、じゃあ悪者って誰?犯罪的な話なら分かります。しかし普段はどうでしょう。いじめ、長いものに巻かれろ、じゃありませんが、自分の立場を気にして、それこそ続きの「悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」というように、立ち位置を決めていないだろうか。相手を「口」撃していないだろうか。

 

そんな事を言ったらまともな人間関係を持てないじゃないか、そんな事をいちいち気にしていたらまともに会話できない、とある人は言うかもしれない。しかし、本来、マウンティングしあったり、誰かを貶めるのではなく、協力しあい、愛し合う共同体、ないしあなたの遣わされている場所はあるべきではないだろうか。

 

パウロという1世紀に活動していた伝道者はその手紙にいくつかこのことについて書いています。「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」とか「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とか「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」など。

 

私たちはどんな場面にあっても、誰かの徳になるようにありたい。そのためにも、やはり私たちは語るべき言葉を語れるように祈る必要性を覚えますね。舌は制御するのは難しい、だからこそ、これを聖めていただきたい。

 

イエス様も実はこんなやり取りをしています。「群衆の中のひとりが、『先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください』と言った。すると彼に言われた。『いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。』そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」と。随分冷たいな、と思うかもしれません。しかし、何を分けることが大事なのか、それはある意味ではいのち。自分の立場・いのちを気にして自分が有利になるのではなく、神様がすべてを与え備えて下さる。だから、私たちはどんな状況、立場にあっても、神様が示される、徳となる、いのちある、その人の助けとなる事を語りたい。

 

↑の前半部の律法は、極論自分の立場を気にしているからそういう事が起こる。でも考えてみてください。私たちは皆、神様によって造られた大切な存在、悪意、極論サタンの囁きに負けて立場を気にしている場合じゃない。神様が味方なら何を恐れる必要があるのでしょう。むしろ、神様のいのちある恵みが溢れるほうがよっぽどいいじゃないですか。あなたのいる場を誰に委ね渡すのでしょうか。それがすべてを変えてくる。あ、ちなみに貧しい人を重んじるとありますが、これは立場が、と言ったほうがわかりやすいかもしれませんね。間違った行為をしていない限り。

 

ただ、イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と語られます。神様に飢え渇くという意味で。そういう意味でも私たちはそこに神様の御国が広がり、いのちあるところとなるよう、いつも祈り、語るべき言葉を導いてもらいたい。誰かが困っているなら、↑で在留異国人(隣人も)のことや「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」とあるように、その人の助けとなるものでありたい。

 

最後に、「罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである」とありますが、罪のない人はいない。まあ、この場合は無罪の人を、という意味でしょうが。ただ私たちは罪のない者、イエス様を罪あるものとして十字架にかけた。いや、神様が私達、霊的に貧しい、命を失った者を憐れまれ救うために、無罪の御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、罰せられ死なせたのです。あり得ない。しかし、そのありえないことを通してまでもあなたを愛する決断をされた。3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、解放され、新しいあなた、いのちあるものとされた。あなたは神様の子という素晴らしい特権を頂いているのです。その私達が、夜に恐れ、自分の立場を気にしてもう一度ねじ曲げてどうしますか。むしろ神様の方向に向き直る、立ち返ろう。

 

私たちはバカ正直でいいんです。神様の御前で。あなたを助けるはずの聖霊様を悲しませることをイエス様はよしとはされない。この神様の愛を疑わず、むしろ助け主なる聖霊様があなたのうちに、あなたのつかわされた場に豊かに働くことを願おう。そこには神様の愛が、御心が、御業が溢れ、御国が広がっていくから。