ー真に親しき仲に命ありー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った。『どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。』それでモーセは民に言った。『恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。』そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。主はモーセに仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。…」

出エジプト記20章18-26節

 

親しき仲にも礼儀あり、という言葉がありますが、確かに言えなくはない。上下関係のなかにあっても、礼をわきまえることも大事。しかし同時に距離が遠くなってしまう。しかし、神様はあなたを祝福したい、命のうちに招きたいとご自身から声をかけてくださった。私たちは神様がくださる恵みをいただき、この内を歩もう。

 

さて、十戒から話は戻り、シナイ山で神様はイスラエルの民と契約を結ばれている中で十戒が与えられた。そもそも神様がどんな契約を結ぼうとされていたのか、それは「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」というものでした。

 

神様の言うことをちゃんと聞けば、聖なるものにするよ、と縛り付けようとしているわけではない、むしろ彼らが、私たちが神様の聖なる国民、宝、祭司として神様があなたを聖め、また命あるものへと作り変えたい、導きたい、養いたい、その思いが律法の中に組み込まれている。十戒も含め。ただあれしろこれしろ、ではない。むしろ神様は私達が幸せに生きるその道をいつも示されているのです。まあそのさらなる詳しい話はこの次の章から始まる律法の中で更に見えてくるのですが。

 

ちなみに、律法というと何やら戒律的なイメージがありますが、十戒の大半が願望敵未来形、神様が導くから〜するだろう、〜しないだろうというふうに語られていたように、戒律を守らせるのが目的なのではなく、私たちが幸せになること、神様が導いてくださる。その思いが込められている。旧約聖書は終わったのではない、イエス様にあって成就した。この命ある愛がイエス様を通して私達の内に溢れ流れるのです。

 

話は↑に戻しますが、イスラエル民族はみな、神様が顕現され、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃していました。彼らはこれを見て、たじろぎ、遠く離れて立っていた。まあ、柵というか、境界線が設けられてはいたのですが。彼らはモーせに「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから」と語ります。

 

これは非常に悩ましい問題ではあります。この先の時代の預言者イザヤという人がいるのですが、そんな人でさえ、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」というくらいですから、わからないこともありません。確かに私たちは神様の聖さにふれれば、とてもたちおおせられない。その罪深さゆえ。パウロという律法に秀でていた(知識において)人でさえ、復活のイエス様の前に目をくらまし、立っていられなかったほどですから。まだイエス様を迫害していた頃。

 

しかし、神様はモーセが言うように、神様との関係を先程申し上げたような、正しく恐れず、自分の都合の良い時だけ利用する、そのような関係ではなく、聖なる聖い関係に生きることを願って神様は語られる。むしろ私達は神様の御言葉の前にへりくだって聞く必要性を感じますね。自分の解釈で、都合のいいように曲げるのではなく、神様が導かれる、語られる言葉に従って。神様の御言葉は私達の足の灯火、私たちの道を照らす光なのですから。神様はこう言うけど、私はこう思うからこっちにするわ、とか。しかし神様はいつでも私たちを導かれる、この事を忘れてはいけない。自分が神様と対等であり、好きに選べる、ではなく、神様の御心は私達の思いを遥かに超えた命あるものであることを覚えたい。

 

そして神様はいよいよ語られる。ここからずっと律法の話が続いていきますが、そのオープニングとして、やはり神様との関係なのです。神様はモーセにこのようにおっしゃられます。「あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである」と。

 

前半部分は十戒の1−2戒の中で触れたとおり(銀の神々であろうと金の神々であろうと作り物の偽神(物)であることにはかわりはない)。私たちは神様を自分の思いで飾り付け、より良い自分のイメージに近づけようとするけどそうではない、神様は私たちがなにか付け加えなければいけないほど欠けた方なのだろうか。そんなことはない。また、祭壇についても触れられていますが、自然のまま、神様との礼拝、交わり・交流にあれこれ付け加えるのではなく、純粋な思いを持って神様のくださる恵みに与ろう。神様の足元にひざまずいて、あれこれ忙しくするのではなく、↑の一番最初に見たように、神様の御言葉に純粋に耳を傾けたいものです。

 

親しき仲にも礼儀あり、という言葉はたしかにあり、神様との関係にあって礼儀もある程度必要でしょう。しかし同時に神様はあなたを、前の章で見た契約のように宝、宝の民、聖なる国民、神様の家族へと招かれる、神様の友として招かれるのです。そのために御子イエス様をあなたの罪の身代わりに十字架にかけ身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人をご自身の真の親しき仲、家族に招き入れられる。そこには神様の命がけの愛が溢れているのです。

 

私たちは神様との関係を、金や銀の装飾品や、のみで手を加えたような自分中心のものにするのではなく、神様があなたを聖め、イエス様の命にあって新しくしてくださる、その純粋な命の道、愛の道を歩ませていただこう。私たちが付け加える必要はない。世の終わりまでともに歩まれる不っか津野イエス様が、あなたのうちに、どんな時もその御心にあってその栄光を現し、御業を、御力を刻まれる、歴史を刻まれていくのだから。あなたとのいのちの関係を。あなたは今日、神様との関係をどう考えますか?