「殺してはならない。(殺さないだろう。)」
出エジプト記20章13節
最近某国で中絶問題が挙がっていますが、それは恐らく↑の箇所から来ているのかな、と思う。でも、そこには焦点を当てても、銃社会は?色んな疑問点が出てきますね。そもそも私達の命は神様から頂いたものですから大切にしなければいけない。中絶問題はここでは明言はしませんが、私たちはもっと本質的なところ、神様との関係を殺さない、神様との関係の中生きよう。そこから神様の大いなる御心が現されていくのだから。
さて、ついに神様がモーセを通して紅海を割り、出エジプトを果たし、かつて神様が必ずここに戻ってきて神様を礼拝するときが与えられると約束されたシナイ山に戻ってき、神様と契約が結ばれ、そしていよいよ↑からいわゆる十戒が語られていきます。今日の第6戒のテーマはストレートですが、殺人について。でももっというと、命についてかな。
いつものように、ここは命令形か否か、これは願望未来形。殺さないだろう。神様が何かを殺す必要な状況を変えてくださる、ということが見えてくるわけですが、実は、この元の原文を見てみると、「誰を」殺さないだろう、とは一言もじつは書いていないんです。悪い人とか、そういう何かこう言う人は殺していい、こう言う人は殺してはいけない、そのようには書かれていない。
まあ、十戒のあとに出てくる律法の中では今度は死刑制度について出てくるのですが、非常に悩ましい問題です。矛盾するのでは?とかいろんな疑問が出てきます。だから、死刑容認派、反対派、中絶容認派、反対派など分かれてくるのですが、実に本質はこれまでの律法で見てきたように神様との関係、これがウェイトを占めてくることになります。
そもそも人はどのようにできたのかをまず見たいのですが、その時の記録にはこのようにあります。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』そのようになった」と。
偶然できたものだから、と考えるなら(進化論など)、自分が中心となるなら、自分の価値で相手を見、相手を判断する。結果、歪が生まれて、目も当てられないようなことも起こる。でもそうではない。人は偶然にはできないし、偶然進化することもない。神様が造られた。だから命がある。心がある。魂がある。養う、導かれる方がいる。神様は、神様のイメージに似せてく造られた。それに、あなたはあなたへの「神様の」思いが、イメージがある。それを私たちはどうして傷つけることができるだろう。自分の価値と違うからと言って。
むしろ、神様は祝福され、すべてを「正しく治める」任務を与えられた。ここでは動物が登場しますが、それは5戒でみたような親子関係、夫婦関係、また隣人との関係(自分の苦手な人も含め)においてもそうでしょう。減らせ、ではない、この命にみちみちた命が、神様の祝福たる存在、人が増えることを何よりも願われていることが見えてくるのではないでしょうか。神様はすべての必要なものを与えてくださる、それなのに私達は何かを奪い合い、傷つけ合う、マウンティングし合ったりする必要はない。神様はあなたにはあなたへの必要を満たし、与えてくださるのだから。
このアダムとエヴァがエデンの園に置いて罪を犯し、追放されて後、2人に子どもが与えられます。兄のカインと弟のアベルです。しかし、カインはアベルに嫉妬し、神様が心を治めるべきだ、となだめますが、彼は人類初の殺人事件を起こす。じゃあ血で血を贖わなければならない、復讐者を恐れたカインを神様はそれでも憐れまれ、彼に復讐するものには7倍の復讐が待っている、と返って彼の悔い改めの機会を与え、さらには妻をも与え、やり直しの機会を与えられた。
そういえば、聖書には「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」ともありますね。憎むよりも、愛を、なにか悩む人を励ます。復讐は神様のものだから、全ては神様に委ねることを訴えていますね。神様が主、神様が何かを変えてくださる、だから私達自身の罪を殺す、ではありませんが、治める必要があるのではないでしょうか。
私の知っている方で、外国で子どもが殺された、という話を聞かせていただきました。本当にご夫妻は苦しんだことでしょう。大切な我が子が。しかし、ご夫妻は主にあって赦すことを決めました。裁判で、少しでも量刑が軽くなるよう嘆願されたそうです。すごいな、と思います。
私もある事件が発端で母が事故死(ある事件の解決のために被害者を励まし奔走している中で)があったとき、その大本となった人を相当恨みました。何年も赦すことができませんでした。しかし、それが自分の心を殺し、疲れさせてしまった。そして最後は赦す事を主の前に決断しました。まあ本人は認めなかったのですが、あとは主に委ねます。むしろ逆に先のケースも、私のケースも、もし彼らが悔い改めたなら、そこに箸ではなく、神様の命、祝福が溢れるのではないか、と思います。
こうしてみていくとわかるように、私達はまず第一に殺してはいけないものがある。それは自分の命とか、誰かの命ではない、神様との関係、時間。これをなくしてしまうなら、私たちはどうして磁性、コントロール、心を保てるでしょう。普段の歩みの中に悲しみや苦しみ、死ではなく、神様の祝福が、命が、生がどうして溢れるでしょう。
私はこの節の分かち合いをただ殺してはだめ、で終わらせたくない。むしろ命、神様の命が溢れること、最初に人が造られた時に祝福されたように、祝福が広がっていくことが願われたように、私たちはこの神様の命が溢れることを願いたい。私達の周りには目をつぶりたくなるようなことがやまほどある。じゃあ仕方ない?ちがう。だからこそ祈ろう。
パウロという人がこのように手紙に書きました。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」と、また「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」と。
私たちを生かすため、神の御子イエス様は私達の神様を不要とする、殺すそのような罪を身代わりに背負われ十字架にかかられた。このイエス様の十字架にあって全ての人が生かされ、不っかつのイエス様の愛があなたを取り囲む、古い自分が死に、全てが新しくされる。生かされるのです。あなたを覆っているのは悲しみや死ではない。命がけの愛なのです。
私たちはこの十字架で結ばれた切っても切り離されることのできない、命がけの愛のなか歩ませていただこう。主はあなたを殺すのではなく生かされる。癒やされ、導かれ、力づけられる。恐れず、神様にあって生きよう。世のしがらみに潰されるのではなく、イエス様の愛に生かされ歩もう。