ー不可能なことはないのは誰なのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

ルカによる福音書1章26−38節

 

ナポレオンもヘレン・ケラーも、不可能なことはない、という言葉を実は共に発しているのですが、2人共、共通して実は神様にとって、という。私たちはあの人はできて私にはどうしてできない、なぜあの人は良い環境が与えられて、自分は不遇なのだろう、と考えやすい。しかし、全てに光を当てるのは神様であり、無から有、なにもない、どうにもならないことから何かを生み出されるのは神様であることを忘れてはいけない。私たちはこの神様のはしためとして謙るものでありたい。

 

ということで、神の御子イエス様が人となってお生まれになり歩まれていった中を見ていますが、今回はその誕生よりも前の、イエス様が来る備えをする人の誕生にまつわる出来事になります。ザカリヤとエリサベツ夫婦、高齢(60代)夫婦が御使いによって、と言うよりも神様によって身ごもり半年経った時、イエス様を育てる役割が与えられるマリヤの前に御使いが現れたところから始まります。

 

当時の女性の結婚年齢はかなり若く13−15歳位、と言われています。そして彼女も神様の教えに従い、結婚するまではその身を守っていた。守られていた。そんな彼女の前に御使いが現れて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です」と告げられます。さらに驚くマリヤに「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」と告げるのでした。

 

これは流石に驚きです。私達の常識ではありえない。さらに、神の御子が人となって生まれてくる、しかも赤ちゃんとして(といってもこの天地万物が創造される前から存在されていましたし、時々助けに現れていましたが)というのですからイエス様の決断も驚くべきことです。神であられるのにそれを捨てられないとは考えず、私たちを救うべく、その有り様を捨ててまで、人となって生まれてくることを選ばれたのです。というよりもこの約束は、はじめの人アダムとエヴァが罪を犯したときからすでに約束されていたことなのですが。

 

イエス様の誕生が預言者イザヤより預言され700年近く経っています。人々はいつかいつかと待ちわびていたでしょう。じゃあイエス様が誕生されるまでの間、何もされなかったのかと言ったらそうではなく、多くの奇跡、預言者を遣わしながら彼らを守ってきた。捕囚中にあっても、捕囚後であってもいつもその御手を置かれていた。

 

↑の箇所はクリスマスの箇所でもあるのですが、その枠組から一度離れてみると多くのことが見えてくるのではないでしょうか。マリヤが素晴らしいのではない、神様が素晴らしい。神様がそのあいを始めに現された。なにもない、ありえない状況の中に神様が御心を、御力を現され、事を行われたのです。聖霊によって身籠られた、処女が。ありえない話。しかし、そのありえないことを神様はありえない決断をもって行われた。もしマリヤが拒否すれば、彼女を通して実現せず、他の人を通してなっていたのかもしれない。これは聖書に書いていないのでわかりませんが。

 

神様にとっては不可能なことがないから、マリヤを無理やり従わせたのか、それは違う。彼女が神様からの託宣を受けた御使いのことばを受け入れたから、この身になりますように、と告白したから起こったこと。人の目に不可能に思える状況の中にあっても神様の御心が、この身になりますように、と祈るなら、私達はイエス様を生み出す、ということはないですが、人の目にはありえない神様の御心があなたを通して溢れ流れるのです。その時、私たちは神様を賛美し、喜び、恵まれたものとなるでしょう。

 

御使いはザカリヤ夫妻の例を出しながら彼女に託宣しましたが、神様は私達に様々なことを見せてくださっている。私達の霊的な目を閉じてしまうなら、そんな事、と思うことでも、これを開いていただく中にあって私たちは神様の栄光を、御業を仰ぎ見させていただけるのです。不可能はない、と言われる御業を、御心を、御国を…そこには終わりはない。昔から変わらず愛された神様は今もこれからも永久に、終わりの時が来るまで、その愛を全うされる。私たちはこの愛の前に謙るだろうか。

 

イエス様はありえない、と思うことさえなされ、生まれてこられた。家族にも神の御子であられながら仕えられた。公生涯に入り多くの愛を現しても裏切られ、罵られ、最後には何の罪もないのに十字架にかけられた。私達の罪を身代わりに背負われて。イエス様は十字架から降りることもできた。しかしこれら全部ありえないだろう、と思うことを、あなたへの愛のゆえに貫き通し、救いのため、死を受け入れられた。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の従事家の前にくい亜らため立ち返るすべての人を恵まれた人、神様の子、家族される。

 

これほどまでに愛されたイエス様の前に私達は今日へりくだろう。自分の望むことだけをなしてください、と祈るのではなく、神様の御心が、お言葉がこの身になること、さらにはここから溢れ流れていくことを切に願おう。御国が近づいているのだから。