「そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。『主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真ん中で固まった。敵は言った。【私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。】あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕らえた。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。』」
出エジプト記15章1-18節
私たちはなにか成功すると、誰のおかげ、と言います。プライド・「誇り」の高い人は自分のおかげ、とでも言うでしょうが、なかなか挙がってこないのが神様。ある教会で特別賛美が行われたあとに拍手を「歌い手」にする様子があったのですが、本当に素晴らしい、褒め称えられるべき方は神様。神様が私達を導き生かしてくださる、この事を忘れてはいけません。これを忘れる時、私たちは神様を忘れ、神様に「埃」を被せてしまう。しかし私たちはいつも神様に伴われ、歩みたい。
さて、↑は、ついにエジプトから、イスラエルの民が出エジプトを果たし、神様がモーセを通して割り、イスラエルの民は乾いた地を渡って先に進みますが、ファラオ率いるエジプト軍は同じように試みますが、自分たちこそ神、自分たちに誇りを持ち、全地を率いるのは自分たちと考えていた彼らは海に沈んだ。私たちは神様が切り開いてくださった道を進ませていただける、しかしそれを選ぶか、それとも自らの誇る、自分で作り出す世界(環境)の中に生きるか、その結果は歴然としていますね。何より、神様の御前にあなたを追って討ち滅ぼそうとする事など決してできない。私たちは神様と共に進みたいですね。
話は↑に進み、この紅海を渡った後、イスラエルの民は何をしたか。それはそのまま先に進むわけでもなく、また自分たちの力で勝利したんだ、と誇るわけでもなく、神様に賛美を捧げるのでした。神様を褒め称えるのでした。
私が小学生の頃、修学旅行の帰り、家につくまでが修学旅行です、と言われたのを覚えています。これは様々な場面で似たような表現をしますが、エジプトから脱出させていただいて、はい、終わり、ではないのです。後は好きに生きる、ではないのです。それなら彼らは賛美を捧げず、むしろ自分の住みたいところを探し、住んでいたことでしょう。しかし、彼らは神様が切り開かれた道、神様に期待をし、神様に祈りの賛美を捧げたのです(賛美は歌だけではなく、ある意味では信仰の告白であり、祈り)。
モーセたちは「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神」と歌い始めます。誰に向かって?モーセが海を割ったのは自分だ、と自分を褒めるように言ったのか?違う。神様に栄光を帰した。神様が勝利を治めさせてくださり、輝かしい栄光を見せて下さった。彼らの馬は海に沈むも、彼らは神様に導かれ、鷲の翼に乗せられるがごとく、導かれ進むのです。自分の力によるのではなく、神様が力を表し導かれる、救われる。それは過去だけではなく、これからも、なのです。神様はあなたを他にんとしてみるのではなく、あなたを造られたゆえに我が子として愛している、だからこそいつもその御手をのばされ、導こうとされる。
エジプトへの勝利を見た、それを告白するだけではなく、その神様に彼らは導かれることを祈り願いうたった。私たちはなにか勝利して、問題が解決したら終わり、になっていないだろうか。それを自分の力と過信し、誇りとして神様に埃を被せていないだろうか。それは結局自分に埃をかけるようなもの。過去のこと、これからは自分たちで、自分でがんばります、と、どこか奥にしまい、困ったことがあったら取り出す、そんなことをしていないだろうか。神様はリアル。あなたを導かれます。
モーセたちは「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた」と歌いますが、他に比べることなどできない。あなたを神様のみ心のうちに、聖い命ある道へと導かれる、どんな苦難の中にあっても神様が力強く働かれ、導かれ、奇い御業をもってあなたを導かれるのです。私たちは神様にどれだけ期待しているだろうか。自分を誇り、自分で道を開拓する、それも自由かもしれませんが、しかし私たちは神様が切り開かれ導かれるいのちの道を歩みたいものです。
神様は愛をもって導かれ、あなたと関わりある、親しい関係として導かれるのです。彼らのこの先どんな事があっても神様は必要を満たしてくださり、勝利させてくださるように、私たちは神様を出し入れして埃を被せず、モーセたちが「あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる」と歌ったように、神様が導かれ、植えられる場所、住まわし養われる場所、神様が建てられる場所、神様が治めてくださることをいつも祈り願おうではありませんか。
神様は御子イエス様のいのちをあなたに差し出してまであなたを罪人として沈めるのではなく、愛をもってご自身と関係のあるものとするため、私たちの罪を取り除くため、御子イエス様に私達の罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし、3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を取り除き、神様の子として迎え入れ、愛をもって伴われ、導かれる。
私たちは神様を誇ろう。神様こそ主です、と告白し、委ね、歩もうではありませんか。神様はあなたを沈めたいのではなく、生きてほしいとイエス様の命さえ惜しまなかった。そこまでされ切り開かれたこの道、いのちを私たちはどう生きるだろうか。