ベン・ハーのもととなる本を書こうとしていたルー・ウォレス氏は最初、
聖書など、イエスなど嘘だ、と否定する本を書こうとしていた。しかし、彼はイエス様の十字架の言葉に出会い、彼はイエス様こそ救い主、と受け入れた。これまで書こうとしていた否定記事を破り捨て、「ベン・ハー キリストの物語」を書いた。
まあ彼のような人は結構いる。
要するに世の矛盾と葛藤し、悩み…
しかし、イエス様はそれでも彼らをご自身のうちに引き寄せようとされた。
復活後、部屋に閉じこもった弟子たち、イエス様を裏切ったペテロのもとにさえ現れ、平安・喜びで満たされ、聖霊で満たされた。私達はイエス様が引き寄せられ、周りの状況は変わらなくとも、私たちの内なる人は強くされる。そして、あなたの信仰の決断は周りへ周りへと今度はイエス様の恵みが溢れ流れていく。
あなたはこのイエス様をどう見ていますか?
フィリップ・ヤンシー氏は言う。
私は、人類の歴史には二通りの見方があるという結論に達しました。一つは、戦争と暴力、卑劣さ、 痛み、悲劇、死に焦点を当てた見方です。そのような視点から見れば、イースターは神の名によってなされたそれに矛盾する出来事か、例外的なおとぎ話であるかのように思えます。それは多少の慰めにはなるものの、正直言って友を亡くした時、その悲しみは抗し難いほどのもので、来世に関する望みなんて、どうにも薄く、ほとんどないかのように思えたのです。しかし、世界を見るにはもう一つの見方があります。イースターを出発点としてとらえ、神が愛する人たちをいかに扱われるかについての議論の余地もない一つの事実として見るなら、人類の歴史の方がそれに矛盾する出来事となり、イースターは究極の現実の前触れとなります。希望が、日々の生活という地表の下を溶岩のように流れるのです。
これはおそらく、復活の日曜日に、鍵をかけた部屋で自分たちの理解を超えた出来事について話し合っていた、弟子たちの視点の変化を説明するものでしょう。ある意味では、 何一つ変わっていませんでした。ローマはなおパレスチナを占領しており、宗教指導者たちからは、なお自分たちの頭に懸賞金をかけられており、死と悪はなお、外の世界を支配しています。しかしながら、それに気づいたことで衝撃を受けた後、徐々に、ゆっくりと、喜びの引き波が流れたのです。もし神にそれがおできになったのなら...と。