ー忘れてはいけない今こそできることー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。『この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。」

出エジプト記12章1-6節

 

私たちはなにか問題が起きると、なんとかしなければ、とあれこれ模索する、誰かに手伝ってもらえないか、自分ではなくとも誰かがしてくれるのではないか、と希望的観測を持つ。しかし、その前に私たちが忘れてはいけない、そんなときだからこそしなければいけないことがある。それは慌てることではなく神様のみ前に静まり、祈り、聴く。神様は希望的観測でもなければ、生きた主です。神様です。あなたのためになら御子イエス様の命さえ惜しまない神様です。今日私たちはこの神様がどれだけ偉大なのかをもう一度思い起こし、神様に信頼する、このことを覚えよう。

 

さて、↑はモーセとアロン対ファラオ・ラムセス2世の直接対決は9つの災いを持って彼らを支配する偽神を討ち、同時に神様を知らない人たちが神様に立ち返る機会となるよう、その御技を神様は表されていきました。しかしなおファラオは頑なであり、そしてついに最後の審判がエジプトに降る、そのための準備について神様が語られた前半部が↑。

 

いよいよエジプトにとって悲しみのときが起こります。もちろん、イスラエルの神、真の神様を信じ、一緒にエジプトをでていく人たちもいるので、これまでの神様の御手に導かれ悔い改めた人もいたことでしょう。そういう意味で神様は無慈悲に裁かれる方ではない。そうなら、とっくに滅ぼすでしょうし、ノアの洪水のときだって、ノアに語られてから完成し、洪水を起こすまで100年近くの猶予がありましたし。また、あの悪名高いソドムとゴモラの街も、一発で滅ぼすのではなく、ご自身の目で確かめに来て、悔い改める機会を与えられましたし。

 

神様は裁きの前にいつも必ず、悔い改め、救いの機会をくださっている。私たちはそこまでいかなくとも、間違った方向に行きかけたときには本当に注意したい。神様は道をいつも造られる。開かれる。神様が開かれる道をいつも進ませていただこう。あなたはそこを孤独に進むのではない、いつも神様がともにおられるのだから。

 

話を↑に進めて、神様はアロンとモーセにまずこう告げます。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と。カレンダーを変えろ、ということ?そうじゃない、基準の問題です。まあもちろん数えの基準でもあるのでしょうが。これから出エジプトが行われていく。神様が驚くべき方法を持って(具体的な方法については明日分かち合いますが)救い出してくださる。この神様が彼らと、また私達とともに進んでくださる、それをいつも自分の出発点、基準としよう、と訴えるのです。しなさい、ということは、裏を返せば神様も同じようにあなたの道にともに進まれる約束ではないか。神様の1日はこの世の千日にまさると言いますが、それほど濃厚にあなたの一日一日を導かれる。なんと感謝なことだろう。

 

それはある特定の人だけではなく、全イスラエルに告げるように、と神様がおっしゃられているように、誰にでもその機会は開かれていた。それを選択するかどうかはそれぞれ。神様はいつでも恵みのみ手を伸ばされ、道を開かれている。それがたとえこの世的に狭い道に見えても、信じて進むか否か。それはある意味では最後は私たちの決断によるのです。かし神様の御心に沿った信仰の決断は必ず神様の御心がなります。神様がその道がたとえ困難であろうとも、あなたが神様にカレンダー、神様の御心に合わせるなら、神様はいつも助けてくださっているのだから、恐れる必要はありません。

 

これからファラオに立ち向かっていく、これまで彼らを支配していたエジプトに立ち向かうなどとても困難な話でしょう。しかし、神様があなたの出発点となられ、あなたに道を開かれる、あなたはこれに信頼しますか?

 

話を戻して、神様は更に続けます。「この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない」と。ここからもわかりますね。貧しい人、足りない人、そうした人たちにも神様は配慮くださっている。これがないとだめ、と通せんぼをする神様ではない、神様は難しい中にあっても必要を満たしてくださる。それぞれに必要な分量をいつも用意してくださる。

 

何より、私たちが救われるため、神様が用意されたのは、極論一人です。御子イエス様ただお一人。しかし、これで十分なほどにあなたを満たされるのです。めいめいに必要なすべてがこのイエス様の十字架の救いから与えられるのです。十字架、これを侮ってはいけません。象徴とかでもない、神様は、この十字架を持って私たちのいのちを贖われた。罪を赦し、神様の子としてくださるのです。家族としてくださるのです。この十字架の前に悔い改め立ち返るなら。

 

私たちはどうしても神様に対して不安をいだいてしまう。しかし神様は傷のない、罪のない御子イエス様をあなたのために差し出すほどに愛され、救わんとされたのです。その神様がどうしてあなたに最善を備えないでいるはずがありましょうか。神様はモーセに↑の最後で「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る」と仰られました。神様は決してこの日は休み、と休まれる方ではないですし、私たちをいつも守り導かれる。助けてくださっている。私たちがそれを見ようとしない、それは偶然ではないか、と片付けてしまうだけ。

 

私たちこそ神様を見ることを休んでしまう。しかし神様はこれをよく見守るように仰るのです。私達が不安なときであろうとも神様は、いつでも働かれている。聖書の中の詩篇にこのようにあります。「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください。』この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」と。

 

私たちは神様のすばらしさを味わっているだろうか。神様は求めるなら応えてくださる。恐怖から救ってくださり、輝かせてくださる。闇から光、死から命へとあの十字架で引き上げてくださるのです。神様は求める人に何一つ良いものをかけさせることはありません。あなたはこの確信ありますか?

 

神様を求める時、私たちの周りへと神様の御業が、祝福が、恵みが広がっていく。変えられていく。この後ファラオの心がしばし和らぎ、彼らを行かせたように、一緒にエジプトから出ていった異邦人たちにこの恵みが広がったように。神様を知らない方のところには、私たちは傷のない心を持って彼らに神様の愛をもって仕えようではありませんか。今こそ私たちはまず神様との関係の中にあって、整えられ、生かされ、また神様の愛をもって世に出ていき仕えようではありませんか。神様の御心が、恵みが溢れ広がることを祈り。