ー誰のせい?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセとアロンに仰せられた。『あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。』それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。」

出エジプト記9章8-12節

 

人は良くも悪くも、種を蒔けばその刈り取りをすることになる。これは聖書を知っていようがいまいが、誰しも体験があるのではないでしょうか。良い実なら良い。でも悪い実を刈り取るとき、なんでこんなことになったのか、検証し、下手をすれば誰かに責任転嫁する。これほど厄介なものはない。それでは決して解決せず、いつまでもくすぶるだけ。私たちは神様に心の内を探っていただき、洗い聖めていただこう。きれいなあなたへ。

 

さて、↑はモーセとアロン対ファラオ・ラムセス2世の直接対決の場面。前哨戦とも言うべきところでは、アロンの杖を蛇に変えて下さった神様が、呪法師たちが蛇を杖のように見せかけた、その蛇を飲み込み、勝利。その次は彼らが信奉する「物」の1つナイル川を血に染め、エジプト中を恐ろしい悪臭に包み込み、飲水もなくなるほどだった。さらかえるを討ち、大地を打ち、さらにぶよを討った。最初はファラオも行かせるつもりが、またしてもこれを翻し、さらに今度は疫病をエジプト全土に起こし、ついに家畜などの命が失われていくこととなりました。ファラオはそれでも頑なになる。そこで↑の次の神様の裁き・災いがくだされます。

 

それにしても神様はひどいと思いますか?そこまでしなくとも、と。でもそうではない。これまで見てきたとおり神様は悔い改めの機会を何度も何度も与えている。その度に自分の都合のいい方向に向かったらファラオは約束を反故にし続けてきた。蒔いた種を刈り取る結果となっていったわけです。

 

そんな中、神様はモーセに、ファラオにこのように告げるようにおっしゃります。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる」と。それでモーセたちはかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。するとなんと、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。あり得ない、と思いたくなるところですが、これが相当なダメージを与えます。呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかったのです。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたから。

 

さて、ここでなぜ神様は腫物を起こすためにかまどのすすを用いられたのか。これはそのまま見ると不思議で仕方がない。神様からしたら、腫物で最初から打つこともできるはずです。しかし、神様はかまどのすすを用いられた。どういうことか。

 

実は、このかまどはイスラエル人の奴隷がレンガを作るために実は使われていたのでした。しかも、それだけではない、このかまどの上で呪法師などが人間を生贄として捧げられていたのです。また、テュポーンという神(物)をこれを持って礼拝していた、と言います。

 

そう、神様はある意味ではこれらを壊した、イスラエルの民を苦しめていたものを打砕かれたのです。私たちは苦しみの中にある時はどうしたら良いかわからない。そして復讐に走ることもある。しかしそうではないのです。神様はあの燃える柴でモーセと語られていたときに、神様は心にイスラエルの民の苦しみの声を聞き、心に留め、また降りてこられたことをおっしゃられています。神様はあなたが苦しみの中にある時に決して無視をしているわけではない、現在進行系で事をなそうとしているのです。最善の時に最善の方法で。その試練のとき、神様は何もしていないのか?いえ、あなたとともに脱出の道、その先にある栄光へと導かれる。あなたを背負って。

 

後に神様は律法というものを民に与えるのですが、その中に「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」とあります。神様が、なされる。何かしらの形で。裁くか、悔い改めに導かれるか。あなたを通して。むしろ主である神様に全てを明け渡す、委ねる、神様はあなたを苦しめる問題を必ず打砕かれる。

 

その方法が今回はかまどを打ち、そのすすをもってエジプトの民全体に、呪法師やファラオに至るまで腫物で苦しめることになります。しかもそこから膿が出てくる。ある意味では彼らのしていたことへの報い、また跳ね返ってきた、蒔いた種を刈り取った形となりました。誰のせいでもない、人がなにか罪を犯すなり、問題を起こせば、それは腫物と言わずとも、何らかの形でその人を覆います。膿も出てくるからさらにこれが覆っているうちは苦しむことになる。

 

↑の一番最後に「しかし、主はパロの心をかたくなにされ」とありますが、私たちも神様の御前に、また何か自分のいに反することに対して頑なになっていれば、腫物と言わずとも何らかの形で、あなたを覆う。これを取り除くことができるのは神様だけなのです。

 

でも、神様がファラオを頑なにしたんでしょう?と思うでしょう。しかしそうではないのです。これは正確には、頑なな「ままにされた」、もう放っておかれた、ということです。もちろんまだ悔い改めの機会がありますが、この頑なさはいくら目に見えて腫物がなくなっても、目に見えない形で残り続ける。どうせ神様なんて、とか疑いの心が、結局私達自身を苦しめることになるのです。このまま放っておいて、頑なな心が、腫物が、あなたの見えない問題・罪があなたを覆い続ける。これを癒やすことができるのは神様だけなのです。

 

神様は、後の時代に預言者として活動するイザヤを通してこのように語られました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。…わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。…』」と。

 

神様はそれでも待っておられるのです。あなたのうちにある霊的な腫物、目に見えない問題、そうしたものを神様は癒し、聖めたいのです。それ故に、私たちを覆う霊的腫物、罪・死を取り除くため、御子イエス様にこれを背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、同じ復活の恵みに与らせていただける。あなたを聖め、新しくし、頑なな心を砕き、それは舞い散り、新しいあなたへとつくりかえられていく。

 

私たちはもう、こうしたすすによってあなた自身を覆われるのではなく、イエス様の血潮を受け、この復活のイエス様の恵み、いのちの衣を着させて頂き歩もうではありませんか。私たちは頑なになる必要はない。神様は私達の思いを遥かに超え、天より高いその御心を現される。導かれる。喜びを持って。今日、私たちは神様を呼び求め、救いをいただこう。そして神様の、天より高い、虚しく返ってくることのない身心、ご計画、愛に生かされ歩もうではありませんか。