ー1日ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。主はモーセに仰せられた。『パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。【わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。】』また、主は時を定めて、仰せられた。『あす、主はこの国でこのことを行なう。』主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。」

出エジプト記8章32−9章7節

 

1日。はい、明日は4月1日、子供も年中さんに上ります。あ、その意味でこの分かち合いをするのではなく、1日って大きいですよね。24時間、86400秒。これを長いと思うか、短いと思うか。皆さんはどうでしょうね。私はこれはとても濃密な時間だと思います。というのも、1秒1秒に神様は事をなされていて、また私たちを守られる、寝ている間も。働いている間も。私たちはこの1日、86400秒をどうもちいるだろうか。神様の御心を求め、歩もうではありませんか。

 

さて、↑はいよいよ出エジプトに向かっていく、モーセとアロン対ファラオ・ラムセス2世の直接対決になります。前哨戦とも言うべきところでは、アロンの杖を蛇に変えて下さった神様が、呪法師たちが蛇を杖のように見せかけた、その蛇を飲み込み、勝利。その次は彼らが信奉する「物」の1つナイル川を血に染め、エジプト中を恐ろしい悪臭に包み込み、飲水もなくなるほどだった。さらにヘケト神と名付けるかえるを討ち、大地を打つ(そしてちりはブヨ・ゲブという名の、エジプトが信奉していた「物」)、さらにぶよ(ウチヒトと言う名の偽神・物)を討った。最初はファラオも行かせるつもりが、またしてもこれを翻す、そこから↑が始まります。

 

さて、ファラオはモーセに出エジプトを赦すも、アブがいなくなったら態度を翻してまた頑なになります。これまで散々神様を侮り、その災いによってエジプトが散々苦しんできた、王としての決断としては考えられない話です。ここまで祈ってもらったりすれば何とかなったし、別に大丈夫だろう、とでも思ったのでしょうか。今回は大丈夫、とでも。

 

これ、私たちも気をつけなければいけません。この前は赦されたし、今回も大丈夫だろう、がいつか痛い目にあわせます。実は一般社会でも、バレてないようでバレています、何より神様がご存知です。そしてどの視点で見ても、蒔いた種は必ず刈り取ることになる。ならあなたはこの1日に何を蒔くだろうか。神様に祈り求めるだろうか。神様が頑ななのではない、私たちが神様はこれくらい大丈夫だろうと、頑なになる。これは本当に私たちにくださる神様の恵みを無駄にすることになるのだから。

 

話を戻して、そんなファラオに対して神様はモーセにこのように告げるように仰ります。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない』」と。

 

今度は家畜の命にまで被害が及びます。ちなみに、牛・アピスという偶像・物が入っていますね。さらには実はこの中にはハトホルという偽神も含まれている。これらが討たれた。女神とされていたのに。家畜はエジプトにとって経済のために必要不可欠なものだった、これが討たれたのです。こうした偶像には結局は力がない、と。本当に存在するならなぜ何も反撃しないんでしょうね。

 

しかし、神様はイスラエルの民の家畜に関しては守られた。彼らの経済を守られた。神様は、神様に信頼するモーセを通してイスラエルを区別し、守られた。もしファラオがこれまでの態度を悔い改め、真の神様に立ち返っていたなら、このようなことはなかったでしょう。神様はただ裁くだけの神様に見えるかもしれないですがそうではない、恵みを注ぎたい、でもそれを受けるか拒否するかは結局私達によるわけですね。

 

よくこの箇所を読んでみると「あす、主はこの国でこのことを行なう」と神様は仰っています。かえるの裁きの時、ファラオは、いつ祈ったら良いのか、とモーセに尋ねられた時に、明日、と答え、結局裁きがくだってしまった。その時の記憶がないのだろうか。今すぐ祈ってくれ、とあの時答えていれば何もなかっただろうに。今回も、この神様の宣言の前にファラオには悔い改めの機会はあった。与えられていた。しかしファラオは、↑ではファラオとモーセの会話が書かれていませんが、実際はされている、その時、彼は赦しを願い、またすぐに祈ってください、とはしなかった。

 

神様を信じるイスラエルの民が守られることも聴いた、ならばどうしてファラオは立ち返らなかったのだろう。神様は1日引き伸ばされた。考える時間もあったでしょう。神様は単純に滅ぼす、ことだけを目的とするなら一発でできます。いきなり10番目の災いに飛ぶことだってできたでしょう。しかし、神様は彼らが神様こそ主であることを知り、立ち返ることを願っていた、ファラオが、私たちが、今日、神様に立ち返り、御心に生かされること、返ってくることを待っているのです。

 

結局、神様はこの翌日、ことをなされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかったのでした。神様が差別をされたのではない、神様にとどまるものに神様は実を、恵みを注がれるのです。

 

疫病、ここ数年、これがどれだけ大変なものかを私たちも見てきたでしょう。しかし、私たちは霊的な疫病と戦わなければいけない。この世の価値観によって思い悩む、苦しむことも多々あるでしょう。そして心を、魂を蝕んでいく。罪、これに至っては、○○癖のように自分の力では変えられない。○○に入るのは人それぞれでしょうが。しかし神様はそれを上回る恵みを注ぎたいのです。そんなものにあなたを討たせ、苦しめるのではなく、恵みで、神様の愛であなたを覆いたいのです。死んだものではなく、生きたものとしたいのです。

 

なぜ神様は、と心を頑なにしている場合ではない、私たちは、今こそ神様の開かれた両手に飛び込む、開かれた門に入って行こうではありませんか。ファラオの使いも、ある意味では招かれ、そのまま帰らないという手もあった(後にイエス様誕生のとき、ヘロデ王から、状況を伝えるように言われた博士たちは、従うべきは神様だ、と別な道を通って帰り、従わなかったように)。その門戸は開かれているのです。後にはファラオに愛想をつかす人も出てきます。神様は、私たちを取り巻く霊的な疫病を打つことができるのです。そして神様の子として、恵みの中生きることを願っているのです。

 

そのためにこの門戸を開くため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけて死なせ、しかし3日めによみがえらせたことによって、墓は開かれ、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人を罪人から神様の子への変えてくださる、その特権を与えられるのです。

 

私たちはまあ後でいい、死ぬ前に信じればいい、ではなく、あなたに与えられた一日、イエス様の命がけの愛で与えられた命、一瞬一瞬を無駄にしてはいけない。その日はこのイエス様が作り出し、導かれるのだから。今日という日のうちに、いや今、私たちは神様の前に立ち返り、霊的な疫病ではなく、イエス様の目組、いのちをいただこうではありませんか。