たとえ成果がなかなか見えなくても… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

成果の見られない時期を、私は待ち時間として捉えるようにしています。結局のところ、愛する人の飛行機が遅れても私は喜んで待つし、パソコンのテレホンサービスは保留中も待つし、見たいコンサートは行列に並んで待ちます。待つことで、時間をムダにしているというわけではありません。待つことは、何かを期待して時間を使っていることなのです。

 

時々、私は意志力を振り絞って神の下に行くことがあります。それは誠実な行為には見えないかもしれません。けれども、その時、私は仮面をつける必要がないのです。神はすでに私の魂の状態をご存知です。私は何か新しいことを神に告げているのではないけれど、祈る気分でない時にも祈ることで、神への愛の証しをしています。ただ、御前に姿を現すことで、私の心の奥底にある信仰を表しているのです。

 

私は、神がみ姿を現してくださらないと不平を言いそうになる時、神には、私が姿を現さないことで不平を言う理由がもっとおありだということを思い出します。私は神のために毎日数分間取っておくものの、いったい何度、私の良心に、また人生において、語りかける静かな声を消し去ったり、無視したりしたことでしょう。「わたしは戸の外にいてたたいている」という黙示録の言葉はよく知られるようになり、しばしば意味を広げて福音伝道のメッセージにも使われるようになりました。しかし、イエスはその言葉を、教会いっぱいにいる信者たちに向けて語られたのです。私はいったい何度、戸を優しく叩く音を聞き逃し、神の招きを逃したことでしょう。

 

ーフィリップ・ヤンシ―ー

 

神様は、あなたのために御子イエス様の命を押しまず与えるほどに愛され、

そこまでされてあなたを救おうとされた。

神様は私たちの想像を遥かに超える計画を持っておられる。

わたしをしんらいしますか?招き入れることを待っておられる。

神様は結果が出てから語るのではない、結果の出る前でも、試練の中にあっても語られる。あなたは今日、神様の「優しいノック」を聴いていますか?