ーなぜ!ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。『おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、【私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください】と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。』そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。『パロはこう言われる。【私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。】』そこで、民はエジプト全土に散って、わらの代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせきたてて言った。『わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。』パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、『なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか』と言われた。そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。『なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、【れんがを作れ】と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。』パロは言った。『おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから【私たちの主にいけにえをささげに行かせてください】と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。』イスラエル人の人夫がしらたちは、『おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない』と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。」

出エジプト記5章6−19節

 

世の中理不尽に感じることは多々ある。様々な疑問にぶつかる。その時、私たちの心はどこに向かうだろうか。問題を問題視するか、神様に問題があるとするのか?それとも神様のご計画に信頼するか。神様がする、と言われたことは何があってもなされます。私たちは神様の愛を受けている、この愛に生かされ、どんなときでも生きようではありませんか。

 

さて、↑はかつてヨセフというイスラエル人が神様の助けによってられて40年。しかしこの間それをを知らない王朝ラムセスによってイスラエルは支配されます。40歳になったモーセはイスラエル人が虐げられているのを見て我慢できず、そのエジプト人を殺め、見つかり恐れ、逃げ出し、ミデヤンの地に住み着き家族を得40年。そんなある日、神様は燃え尽きない不思議な柴に招かれ、モーセに語りかけられた。あるという神様、あって有り続ける神様が民の痛みに心を留め、下ってこられ、しるしも含め、戦われ救わんとしていること、をモーセに語られ、兄アロンと再会し、いよいよファラオに対面。ところがファラオは出エジプトを赦さず、返って労役を重くする、そこから↑は始まります。

 

神様から遣わされファラオと対面したモーセと兄アロン。彼らは臆することなく神様の語られたことをファラオ・ラムセス2世に伝えます。機嫌を取る言葉に変えることなく。しかし、彼は頑なに拒否します。彼の父はそれでも神様の凄さを知ってか、彼らを恐れていた。しかし、ラムセス2世はまったくそんなことなどなかった。むしろ自分の力を誇示するため、自らの王宮やおそらくピラミッドなどを建てていたのでしょう。

 

彼にとってはイスラエル人は労働力でしかなかった。彼の父は、他国と手を組まれたら厄介だ、と言っていた。神様が彼らについている、彼らを強くしていることを目の当たりにしているから。しかし、2世は主とは誰だ?と無関心。そして彼らを留めるために「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、【私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください】と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。』」というのです。

 

人を何だと思っているんでしょう。雇い主と雇われ主の関係を超え、ただレンガを作るだけでなく、その材料を集めさせ、作る量も減らしてはいけない、という。無茶苦茶な話です。ただ単純に労力がいなくなったら困る、レベルならわらは今まで通り提供するほうが効率的です。

 

ファラオは神様に生贄を捧げることを怠ける行為、と言います。自分の労力が減るというのもあるでしょうが、今申し上げたように理にかなっていません。まあ、このエジプトでは数多くのものを神として信仰していた、主は知らない、と彼は言っていましたが、子供をナイルに流し、ナイルの偽神に捧げさせようとしたように、彼はエジプトの偽の神々を礼拝し、自分が益を受けることを考えていたのではないか。彼らから真の神様への信仰を奪い去ろうと、希望を捨てさせようとしていた。そしてよりその偽の神々を喜ばせる行動によって自分の利益を求めていたのではないか。

 

しかし、果たしてこれは怠けた行為だったのだろうか。イスラエルの神様を礼拝することを。そして↑の一番最後に「これは悪いことになった」と民が思ったわけですが、それでも神様を礼拝すること、神様に信頼することを、私たちはこの世の理不尽や何やらで忘れてはいけない、怠けてはいけない。むしろ、私たちは霊的な面において、間違ったことには間違っていると、モーセとアロンのように毅然と立ち向かう必要があるのではないか。

 

このことは、戦いの中にある人にもっと頑張れ、戦え、と言っているように聞こえるかもしれない。そう聞こえたなら申し訳ありません。ただ、そうではない、ときには彼らのように理不尽に鞭打たれ強いられることも世の中ある。しかし、私たちはそれでも神様を礼拝する、神様の御言葉に信頼する、聴くべき声があるのではないでしょうか。彼らは、ファラオ・ラムセス2世のことばを聴いてこれは悪いことになった、と考えた。

 

しかしたとえ世があなたに何を投げかけてきても、神様はそれらに打ち勝つ。私たちがひれ伏すべきは、それら問題ではなく、神様ではないでしょうか。神様は今何が起こっているかわからないと気にあっても現在進行中であなたのために動かれている。ある時だけではないのです。あなたの生まれる前から、死して後に至るまで導かれる。今何が起こっているかわからない、答えがわからない、奈良なおのこと神様に祈り、御言葉にひれ伏し、信頼しよう。

 

神様はファラオのように鞭打つことば、非生産なことばを、事をなされる方ではない。むしろあなたを救いいのちを得てほしい、と御子イエス様を私達の身代わりに差し出され、十字架にかけ、死なせた。その罪の代価、救いの代価として。しかし、3日目によみがえらせてくださったことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、イエス様と同じ復活の恵みにあずからせてくださる。新しく建てあげられるのです。あなたを命あるものへと。

 

私たちはこのイエス様の愛に、御言葉に、御心にあって建てあげていただこう。神様への希望を捨ててはいけない。神様は鞭打つ方ではなく、あなたとともに歩まれ導かれる。世の終わりまで。そのために人となってまで生まれてきてくださったのだから。私たちは神様が導かれる道を歩ませていただこう。神様との時間を減らすのではなく、神様と離れず、歩み続けよう。神様は一瞬一瞬あなたが一人と思うときにも共にいて、その御心・ご計画を現されるから。